満身創痍ともいえそうな状態でやって来た娘を見て、界王は思わず叫んだ。
「このばか者!」



落明愁夢 17



 は界王の家の中で、彼が普段外で使っているベッドチェアの上に寝ていた。
 額には冷えたタオルがあてられ、氷枕を頭の下に置いている。
 熱くて、薄手のブランケット一枚ですらかけていられない。
 身体が乾いているみたいだと思った。
 水を探して伸ばした手に、冷たいものが触れた。
 布を少しずらして見ると、父――界王が氷の入ったグラスを握らせていた。
「父さん……ありがと……」
 界王の手を借りて起き上がり、水を口に含む。
 冷えたそれを流し込み、ほんの少し落ち着いた。
「……全く、お前は何を考えとる。身体に負荷をかけることをしおってからに」
「だって、あの場合しょうがなかったし……」
 いっぱいの水を、あっさり飲み干す。
 汗で頬に張り付いた髪を鬱陶しそうに流し、ついでに後ろでくくった。
 未熟な異能力を展開し、炎から自分と人とを守ったは、力が受けたダメージの跳ね返りを受けていた。
 高熱を出しているかの如く頭がぐらつき、体温が高い。
 治すのは自身。
 特たる何かがあるわけではなく、苦痛の時間を耐え忍び、跳ね返りが終わるのを待つしかない。
 漠然とそう知っていた。
 半ば呆然とすらしているように見えるに、界王はため息をつく。
「お前、あの男のことはどうするんじゃ?」
「――全部見てたの?」
 界王は眉をひそめて何も言わなかったが、その対応で見ていたらしいことは分かった。
 は苦しげに息を吐き、グラスをベッドサイドに置いて横になる。
「今は……今は何も考えたくないよ……」
 とても疲れた。
 瞳を閉じると、額に冷たいものが当たる。
 界王がタオルを乗せなおしてくれたと気付いて、はほんの少しだけ微笑んだ。
 そうする間にも、意識は薄闇の中に引かれていく。
 とても熱い。寝ても覚めても、身体の熱は自分を苦しめるような気がした。

 寝ている間だけは安らかな気持ちでいて欲しいと思いつつ、界王はの額に乗せてあるタオルを手に取った。
 既に温くなっているそれを冷えた水に浸けて絞り、また乗せる。
 バブルスも心配してか、外にも行かずにの側についていた。
「わしは、どうすべきか……」
 娘の幸せを思えば、彼女が好いた男に連絡をする方がいいだろう。
 だが、今のに大きな刺激を与えたくなかった。
 界王は、と悟空、チチのぜんぶの行動を知ってはいない。
 主立って気にかけていたのはだけ。
 だから、悟空とチチが本当に夫婦の契りを交わしたかなど知らず、牛魔王殿が炎に包まれた日に、彼らが結婚の準備をしていたかどうかも分からない。
「……、お前、どうしたい……?」
 眠る彼女は、答えない。



 悟空が牛魔王城に戻ってきた時、不思議なほど外傷がない牛魔王は、城から少し離れたところで、が渡した水を受け取って飲んでいた。
「牛魔王のおっちゃん!」
「おっとう!」
「おお、チチ、悟空さ。助かっただよ……ほれ、あの通りドレスも無事だ」
 村人に手渡し、綺麗に整えられているウェディングドレスを見て、チチが嬉しそうに笑った。
「おっとうもドレスも無事でよかっただ。怪我もしてねえみたいだし、奇跡だべ!」
 チチの言葉に、牛魔王はひどく辛そうな顔をした。
 がそれを見てため息をつく。
 悟空は周囲を見回し、の姿がないことに眉をひそめた。
「牛魔王のおっちゃん、はどこ行ったんだ?」
「婿殿……いや、悟空さ。おらはあの子に命を救われただよ」
 の力があったからこそ、ドレスも焼かれずに済んだし、自身も火傷一つ負わずに済んだと牛魔王は言った。
 彼が何を言いたいのか分からず、悟空は首をかしげる。
「おっちゃん、は……どうしたんだよ、なあ!」
さんは、城の炎が消えてすぐ、父親の所へ行くと言ってその場から消えちまっただ」
 ――消えた。
 悟空は信じられない面持ちで牛魔王を見やる。
 どうしていきなり消えちまう必要があんだ?
 考えても分からなくて、思考が空回りする。
 半ば呆然としている悟空に、牛魔王はいきなり土下座を始めた。
 それに驚いたのは悟空よりも、むしろチチの方で。
「おっとう、何してるだ!?」
「悟空さ、すまなかっただ! おらは、おらはあの子に嘘をついただよ!」
 勢いよく頭を上げた牛魔王は、苦しげに言葉を吐き出した。
「ご、悟空さとチチの結婚式の準備をしてるかと聞かれて、そうだと答えただ! チチに幸せになって欲しくて、嘘をついただ!」
「な……んで、なんでだよ牛魔王のおっちゃん!」
 がどうしてそんなことを聞いたのかも分からなかった。
 結婚の準備をしていないのに、していると答えた牛魔王も分からない。
 が好きで、だからチチと結婚する気なんて少しもないのに。
「おらは……おらはチチと悟空さに結婚して欲しかっただ。嘘で繋ぎとめておけるものなら、そうしたかっただよ……。だけんど」
 牛魔王は土を掻いて握り拳を作る。
「腕を火傷したみてえに真っ赤にして、物凄い熱出したみてえに体温上げってよう……必死んなっておらとドレスを守ってるあの子に、申しわけなくなっちまっただよ……。悟空さとの約束を護るんだって、必死で」
「……オラとの、約束?」
 牛魔王を助けるんだと言って別れる時、彼女は何を言った?

 『ちゃんとドレスも牛魔王さんも護るから! 約束するから――』

 あれが、の約束だったんだ。
 それを護るために、自分の身体を痛めつけてまで。
 悟空は口唇を引き結ぶ。
 ――を探さなくては。
 戻っているとすれば西の都だが、父親の元というなら、それがどこなのか知らない。
 なかなか上手く働かない思考を持て余していると、突然頬に痛みが走った。
 軽快な音がする。
 が、悟空の頬を引っ叩いたのだった。

「おらの悟空さになにするだよ!」
 チチが怒鳴るが、は全く気にしない。
「……あんた、チチと夫婦の契りを交わしたって本当なわけ」
「ちぎり?」
 言っていることが分からず、悟空は眉根を寄せた。
 本気で困惑している様子の悟空に、は呆れたような表情になり――溜まっていたものを全部吐き出すみたいに、盛大に息を吹いた。
「その顔は、全然知らなかったって感じ?」
 彼女はガリガリ後頭部を掻き、腰に手をやって悟空を睨みつける。
 悟空の部屋に行ったらチチが出てきて、に、もう自分と悟空は夫婦の契りを交わしたと言ったことを伝える。
 契りというものがよく分かっていない悟空に対し、は「結婚を承諾したものと同意」だと付け加えた。
 彼は驚きチチを見やる。
 チチは気まずそうに視線を地に落とし、だけれどもすぐ顔を上げた。
 笑顔を浮かべているチチに対し、あからさまに顔をしかめる
「悟空さ、とにかくは悟空さを諦めただ。おらと結婚するだよ」
「ちょっと待ちなさいよ、勝手なこと言ってないでよ。酷い嘘ついて、を思いっきり傷つけて、何が『諦めた』よ。馬鹿も休み休みいいなさいっての!」
「ふんっ、その嘘を鵜呑みにしたのはあの子の方だべさ。悟空さを信じきれてねえ証拠だべ!」
「ハァ!? 肉体的にも精神的にも追い詰めておいてさ、弱ってる人にそんな駄目押しみたいなことして、揺らがない奴がいるとでも思うわけ!?」
 は知っていた。
 チチがを村の外の仕事に出すのは、村人の殆ど――全員かも知れない――が、を邪魔だと感じていると理解させるためだと。
 の心が弱った所で、悟空と『契り』を交わしたような様でも見せ付ければ、疲れた心はあっという間に悲鳴を上げてしまうに決まっている。
 は悟空を睨みつけ、胸倉を掴んだ。
「孫悟空、あたしは言ったわね。あんたが不甲斐ない行動を起こしたなら、あたしはと兄貴をくっ付けるって」
 その言葉に、半ば呆然としている悟空がはっとなった。
「ちょっ……ちょっと待ってくれよ!」
「あんたはっ、あんたはどうしてチチを部屋の中ヘ入れたの、しかも夜更けだったっていうじゃない!」
「オラ、部屋ん中に入れたりしてねえっ!」
「じゃあが嘘をついてるっていうわけ!? チチがあんたの部屋にいたっていう嘘をがついても、なんの得ないのに」
 振り払えば簡単に外せてしまうの腕を外さないまま、悟空は彼女の言葉に柳眉を下げる。
 本当に何も覚えていないのだ。
 困惑する悟空。
 その後ろから場にそぐわぬほど飄々とした声がかかった。
「あらあら、随分と大問題になってしまったのかしらね」
 見れば、30代ほどの女性が立っていた。
 がいれば、それがチチにお使いを頼まれて買いに行った、薬草屋の女性だと分かっただろう。
 女性はと悟空をやんわり引き離す。
 チチは目を瞬き、女性を見やった。
 未だ地面に座っていた牛魔王が、ゆっくり立ち上がる。
「薬草屋の……どうすただ」
「いいえ、少しばかり遠出しようと思って、折角だからこちらへ来ただけですけれど。――お話は聞かせていただきましたよ」
 にっこり微笑む薬草屋。
 その視線がに向く。
「彼をお責めにならないで下さいね、部屋の中へ入れた、入れないということを覚えていないのには、理由があるのですよ」
「……理由?」
 は目を瞬く。
「チチ様、使うのはお勧めしないと申し上げましたのに」
 薬草屋は仕方がないと息を吐いた。
「彼が覚えていない理由、それはチチ様が彼のお食事か……または飲料に、わたしの煎じ薬を入れて摂取させたためです」
「どういうことだ?」
 悟空に問われ、薬草屋は微笑む。
 場にそぐわない、やんわりとした笑みだった。
「薬は、対象を一晩、深い眠りに誘います。ちょっとやそっとじゃ起きやしません。ですから」
 たとえ部屋に鍵を掛けていたとしても、チチがマスターキーを持っていれば悟空の部屋は解放される。
 彼は薬で眠っているから――。
 は怒りを通り越し、呆れてチチを見やった。
 だがチチは、驚きの表情を薬草屋に向けている。
「ちょ、ちょっと待つだよ。おらはおめえに違うものを頼んだだべ!?」
「ええ。惚れ薬を所望されましたよ」
 ぎょっとすると牛魔王。悟空だけは意味が分かっていないようだが。
 は思い出す。
 から聞いた所によると、チチは随分とあだっぽい格好をしていたらしいから、惚れ薬でそのまま既成事実でも作ろうとしたのかも知れないと。
 薬草屋はさらりと答える。
「ですけれどねチチ様。人の心を意のままに操って、それでどうなります? 愛しい人を自由自在にすることが、チチ様のお望みかしら?」
 詰まるチチに微笑みかけ、薬草屋はポケットから小さな小瓶を取り出す。
 不思議な揺らめきを見せる粉が入っているそれを、薬草屋はに渡した。
「これが本物の惚れ薬です。あなたが持っていてくださいね」
「どうしてあたしが……」
「そうしなさいと、茶葉が教えてくれたのよ」
 占い師かと首を捻り、とりあえずはそれを受け取る。
 息を吐いて悟空を見やった。
「あんた、どうすんの。あたしはブルマさんとこに帰るわ、ここにいてもしょうがないもの、気分悪いし。――と、その前に」
 自分の行動を今更ながらに考えているのか知らないが、地面を見つめて動かないチチに問う。
「チチ、実際はどうなわけ。契りとやらは交わしたの?」
「素直に言うだよ、チチ」
 牛魔王の後押しも手伝い、チチはゆっくりと――首を横に振った。
 横に暫くいただけだと。
 それだけ聞けば充分だ。
「孫悟空、非常に不愉快だけど他に方法がないからしょうがないわ。筋斗雲とやらで、あたしを西の都へ連れてってよ。あんたがその後どうするかは、知ったこっちゃないけど」
 突き放すように言い、筋斗雲を呼ぶように促す。
 悟空は牛魔王とチチに目を向け――そうしてから筋斗雲を呼んだ。


ヒロインはダウン。
2006・7・14