炎に巻かれた城の中で、ただひたすら牛魔王とチチのドレスを護ることに集中していた。
 それは一種の意地だったのかも知れない。
 悟空が彼女と一緒になるのなら――私は護るべきなんだ。



落明愁夢 16



 既に出口は閉ざされた。
 ならば、らちもなく走り回るよりも、最終的に行き着くであろう場所で身を守った方がいい。
 そう考えたは、城を舐める炎の勢いをざっと確認した。
 力の流れがどこへ向かい、どこを破壊したかを目に焼きつけ、逃げながらどこへ行くのがいいか考える。
 右に左にと逃げながら、は中央塔へと向かう階段の前で、牛魔王の腕を引いた。
「こっち行きましょう!」
「だ、だけんどそっちは」
「どうせ最終的にはここに上ります! あちこち逃げるより、少しでも炎から逃れられる方がいいですよ!」
 がぐいっと彼の手を引く。
「ん、んだな! よし、おめえさんの言う通りにするべ!」
 納得してもらった所で牛魔王を先に行かせ、は後ろをついて走った。
 炎はまだ、左右の建物を撫で回している。
 中央に届くまでには、多少の時間があるだろう。
 走る牛魔王の背中に声をかけた。
「一番上へ! 私は少し作業をしてから行きます!」
「だ、だばそれではおめえさんが」
「炎が来る前に追いかけますから行って下さい!」
 すまないと謝る牛魔王を見送ることなく、は息を吐いた。
 火は、扉を破るほど勢いがある。
 出来ることなら中央塔にある部屋、その全ての扉を開け放ち、そちらに火を回して時間を稼ぎたいところだが、残念ながらその時間はなさそうだ。
 ならば現状で出来る時間稼ぎは。
「……壁をもっと強く」
 両手を壁に当て、力を流し込む。
 塔のあちこちを変質能力でもって強度を高めておけば、火力で塔全部が吹っ飛ぶなんてことはないだろう……多分。
 そうやってあちこち補強し、頂上へと出た。
「おおっ、無事だったべか!」
 の姿を見て、牛魔王が安心したように微笑んだ。
 そうしてから彼は階下を見やる。
「まだ大丈夫です……まだ今しばらくは」
「そ、そうだか。いやしかし、何をしとっただ?」
「壁にちょっとした細工をしてきたんです」
「細工?」
「そ。この建物、塔みたいになってるし――所謂、煙突状態でしょう? 上にいて、途中の壁が壊れて降りられなくならないように、あちこち補強を」
 実際、どれほど保ってくれるか分からないけれど。
 は牛魔王の横に座り、正面を見やる。
 この場所が一番高くて、周囲の状態がよく分かった。
 炎は燃え盛り、既に玄関辺りは真っ赤で何が何やら分からない。
 が寝泊りしていた部屋も赤い海だ。
 いっそ潔いほど真っ赤。
 筋斗雲でも越せない炎とは、一体どんなものなのか想像すらつかない。
 玄関口あたりから、火の柱が四方に飛ぶ。
 不思議なことに、その炎はフライパン山があった場所――つまり牛魔王殿の敷地内にしか現れない。
 その少し先の村には、なんら被害がないのだった。
「村の方は無事のようだべな……えがっただ」
 走りづめで息を切らす牛魔王と
 たぶん、走っただけが原因ではないだろう。
 現状で周囲の気温は高く、息がし辛い。
 煙はないが、高温の酸素も体内に取り入れるだけで負担になるようだ。
 は額に浮かんだ汗を拭った。
 頭と身体が無用に熱い。身体も気だるかった。
 周囲の温度のせいだろうが、炎が迫ってきたら泣き言なんて言っている場合ではない。
 ふるふる頭を振り、やるべきことを叩き込む。
 異能力を全面展開するなんてしたことがないが、悟空と一緒に天界で修行したのだからできるはず。
 まだいま少しの猶予があるが、そのうちにしっかり休んでおかなければ。
 力を使う前に、悟空がどうにか芭蕉扇を持ってきてくれればいいのだが。
 ――なんて、悟空に頼ってばっかりじゃだめだよね。

 中央塔へ炎が侵入してきたのは、炎が城を包んだ翌日、太陽が昇って暫くした頃だった。
 階下に赤い光が見え始め、段々それが強くなってくる。
 牛魔王はウェディングドレスを抱えたまま、壁に寄りかかってぐったりしていた。
 水分もない状態で、始終灼熱の空気に晒されていれば当然だ。
 かくいうも、体力の減りが半端でない。
「……悟空」
 手足を床に伸ばし、背中だけを壁に預けていたは、ふいに気付いた。
 炎が、物凄く強い風に煽られている。
 隣にいる牛魔王を揺さぶった。
「牛魔王さん……もしかしたら、悟空が芭蕉扇を……」
「な、なんだって! ど、どうなっただ、火は消えただか!?」
 山の裾野の方で、確かに炎は風を受けている。
 だけれども、一行に鎮火する気配はない。
 余計に勢いが強くなっている気さえする。
「だめだべか……芭蕉扇でも……」
 額に手をやり、絶望感を露わにする牛魔王。
 は、揺れる炎の向こう側にいる人を想った。


 様々なところへ行き、偶然も手伝って芭蕉扇を手に入れた悟空。
 だが、芭蕉扇を幾度振っても炎は消えず、益々猛る。
 苛立ちを込めてもう一度扇を振ろうとしたところに、占いババが飛んできた。
「ご、悟空! 芭蕉扇はだめじゃ!」
「なっ……なんでだよ! これがあれば火が消せるんじゃねえんか!」
 占いババは首を振る。
 隣にいるチチが、心配そうに城を見上げていた。
「どうすりゃいいんだよ……このままじゃ、が……牛魔王のおっちゃんが……っ」
 拳を握る悟空の横で、が眉をひそめて占いババを掴む。
「ちょっと、どうにかならないわけ? が焼け死ぬなんて冗談じゃないわよ」
「だから、占いの結果を教えてやろうというに……。悟空、これは八卦炉(はっけろ)のせいじゃ」
 八卦炉は、フライパン平野の真裏にある五行山に構える、五行門とやらからいけるらしい。
「太上老君に目通りし、八卦炉の火を消せば、この炎も消えるじゃろて」
「よし、じゃあオラ行ってくる!」
 筋斗雲を呼び、上に飛び乗った。
 チチも行くと言い張り、同じように飛び乗る。
 はその様子を見て文句を言おうとし――ふっと肩の力を抜いた。
 聞くのは全てが終わってからにしよう、と。
 筋斗雲が飛び去るのを見送り、は炎に巻かれた山を見つめる。
「――、無事でいないと蹴り飛ばすからね」
 軽口を叩いていなければ、泣き出しそうだった。



 いよいよ火が迫ってくる。凄い勢いで近づいてくる炎。
 波打つそれは、まさに赤色をした海。
 熱気で汗が乾くのではないかと思うほどだ。
 ふ、とチチに頼まれてお使いに行った時、店員の女性に言われた言葉を思い出す。
(自分を大切に。炎に気をつけて――か。やっぱりあの人、占い師も兼業だったのかな)
 確かに今、自分はこうして炎の脅威に直面している。
 けれどこれは気をつけようがないとも思うが。
 は牛魔王の傍に寄り、彼の前に座った。
「い、一体どうしただ?」
「今から、牛魔王さんとドレスを中心に防御壁を張ります。壁が展開されている所から出ないように、しっかりドレスを抱えてて下さいね。長い時間張れるように、範囲をギリギリまで狭くしますから」
「ど、どういうことだべか」
「時間がないんです、いきますよ!」
 軽い振動音がし、と牛魔王を包み込むように、青緑色の膜が張られる。
 それは攫うようにして襲ってくる炎から、2人を守った。
 息苦しさだけは多少残っているが、それでも炎に巻かれている状態で、火傷もしなければドレスが焼けたりもしないのだから上等だろう。
「お、おめえさん凄いだなあ」
「余り過信しないで下さい。いつ限界が来るか分からないし……」
 もしかしたら、あっという間に限界に達してしまうかも知れない。
 長時間の異能力放出は、今まで経験したことがないのだ。
 それに、牛魔王が感じている熱と、が感じている熱は違う。
 牛魔王を中心として壁を展開させているため、まできちんとした防御ができているわけでなかった。
 彼はそう息苦しくはないだろうけれど、は円の外側付近にいるため、相当息苦しい。
 背中が焼けるような暑さで、うなじがジリジリしていた。
 我慢しきれない程の熱や痛みを受ければ、慣れていない異能力放出だけあって、一気に壁が霧散してしまう可能性もある。
 とにかく意識を集中し、壁を張ることに専念していた。


 ――数時間は経過しただろうか。
 ふいに、は背中耐え難い熱を感じ、思い切り顔をしかめて逆を向いた。
 牛魔王に背を向け――つまり徐々に弱まっていく壁に身体を向ける。
 手の平を炎側に向け、胸の前で交差させて力を展開させるけれど、限界が近いことはが一番よく知っていた。
 心臓がうるさい。
 身体が、頭が熱くて、ともすれば耳鳴りすらしてきそう。
 使い慣れない力は、の身体に負担を強いている。
 しかし、かといってここで壁を外せば、火の海に放り出されるも同義。
 ならば負担がどうあろうと、ここで壁を張り続ける。
 肩で息をし始めたを見て、牛魔王が声をかけた。
「お、おめえさん大丈夫だか?」
「あはは……大丈夫。も少しで……きっと……」
 きっと何とかなるから。何とかなるはずだから。
 そう思っていなければ挫けてしまいそう。
 手の平が、腕が熱い。強い火で焙られているみたいだ。
 火傷はないと思うけれど、ひどく痛い。
 けれども腕を下ろせば壁が崩れる。
 は方向性を示さないで壁を張っていられるほど、力を使いこなせていなかった。
「牛魔王さんは、へいき、ですか?」
「おかげでおらもドレスも無事だべ」
「ちゃんと……ドレス抱えてますか? ……それは……大事なものでしょう」
 息が苦しい。
 きちんと酸素を吸えているのか、分からなくなってきた。
 ――負けるな。もう少しだから。
「チチさんと悟空、結婚の準備を始めてたって、聞きました。ほんとですか?」
 牛魔王はすぐに答えなかった。
 たっぷり悩んで、そうしてから彼は小さく頷く。
 悟空が本当に結婚を了解したかなんて、分からないけれど。
 でも、悟空がチチを心配する姿をこれ以上見ていられそうもない。
 非常に心が狭いとは思うけれど。
 やはり、この世界に戻ってくるべきではなかったのだ。
 そう言い聞かせる。
「だいじょぶです、振られたからって壁を取り払ったりしません。頑張りますから……っう……」
 が急に息を止めて苦しげに呻いたため、牛魔王は怪訝に思ってそっとの腕を見た。
 彼女の腕を見た瞬間、彼は大きく口を開け目を丸くした。
「おっ、おめえさん腕が、腕が真っ赤だべ!」
 の背中に触れた牛魔王は、彼女の身体が物凄く熱くなっていることに気付いた。
 周囲の気温のせいではない。
 不自然なほど高くなっている体温は、高熱を出しているかのよう。
「ど、どうしただ!? なしてこんな」
「……私が、未熟だから、です。弱まってきた壁を保つには、私がダメージの一端を請け負わないと……いけないんです」
 強い壁をずっと張っていられれば、こんなことはない。
 鍛錬の足らないが壁を維持するためには、壁が受けた衝撃をある程度引き受けていなければならなかった。
 故に、壁が受けるべき熱や痛みを、ほんの少しだが、の身体が受けている。
 時間が経てば経つほど、それは積もり積もってひどい物になるが。
 熱によっての汗ではなく脂汗を流すに、牛魔王は叫ぶ。
さん独りなら、もしかすっと、もっと安全だったでねえだか!? おらを守ってるで、こんな」
「――牛魔王さんは、悟空のお父さんになる人でしょう?」
 朦朧としている場合じゃないのに、視界がすっきりしない。
 負けちゃ駄目だ。私は牛魔王さんと――ドレスを守らなくちゃ。
「なして……なしてそこまでするだよ……」
 苦しげに言う牛魔王に、は微笑んだ。
「これが多分、私が悟空にできる、最後のことなんです。あの2人が結婚するというなら、チチさんの幸せは、悟空の幸せってことでしょう? だから……守りたいんです」
 それに、
「――それに、私は悟空と約束した。牛魔王さんも、ドレスも、絶対に護るんだって……だから」
 そう、約束したから。だから護る。

 強く吹いてきた風に煽られ、炎が壁を撫で付ける。
 の顔が苦痛に歪んだ。
 約束したのに。護るって、約束した。
 なのに身体のあちこちが炎みたいに熱くて、コントロールが効かない。
 が張っていた壁が、薄い氷の割れるような音を立てて瓦解していく。
 瓦解は端から始まり、一気に全体を覆いつくす。
 「……ごめん、なさいっ…………!」
 最後の防御壁が崩れた時、は衝撃を受けて吹き飛ばされ、煉瓦の壁に背中を打ちつけた。
 ――だが、炎に身体を焼かれることはなかった。
 壁が崩れると同時に、今まであった炎が一気に消えたのだ。
「火が消えたべ……すっかり消えちまった。悟空さがやってくれただか……?」
 は重たい頭をなんとか持ち上げ、周囲を見やる。
 確かに火が消えていた。
 あれほど猛威を振るっていたのに、まるで嘘みたいに。
「牛魔王さん、ドレスは……無事ですか……?」
「もちろんだべ! おめえさんが守ってくれただよ!! 勿論、おらのこともな」
「よかった……」

 視界がぶれる。
 ここで倒れて、戻ってきた悟空に心配されたくなかった。
 彼の優しさを受けて、妙な期待をしたくはなかった。
 ――身体の異常を治さなくては。
「牛魔王さん、に……伝えておいてくれますか。少し、父親の所へ行って来るから、先に西の都へ戻っててって」
 一旦息を吐き、そうしてから微笑む。
 精一杯、意地を張って。
「それから――悟空に、幸せになって、って」
 牛魔王は口を開いた。小さく震えている声を隠しもせず。
「な、なんてことを、おらはなんてこと……さん、待ってけろ、悟空さに会うだ!」
 はゆるりと頭を振った。
「お元気で」


 牛魔王が見ている前で、の姿は緑色の光に包まれ、溶けて消えてしまった。





頑張れたのは、やっぱり悟空がいたからだと思います。
2006・7・6