翌朝――が泣きはらしたその日の朝。
 は何とか目の腫れを引かせ、どうしようかと悩んだ。
 本当に悟空がチチを選んだのなら、仕事をしても意味がない。
 ここで、チチの下女として暮らしていくつもりは、には更々ないからだ。
 もし悟空がチチさんと結婚することにしたなら――父さんのトコに置いてもらって、たくさんのことを勉強しよう。
 今までの分まで、父さんと一緒にいるんだ。
 多分それが、父親以外の誰にも迷惑が掛からない方法だから。
 


落明愁夢 15



 悟空の部屋には、もう誰もいなかった。
 ホッとしたような気持ちになるのが、いかにも情けない。
 牛魔王の部屋か、それともチチの部屋か、はたまた食堂か。
 考えていると、後ろから肩を叩かれた。
 びっくりして思わず飛びのく。
 に過剰反応で驚かれたため、肩を叩いた方も目を丸くしていた。
「なっ、なんなのよ、驚くじゃない。、朝からどうしたのよ」
……ごめん、なんでもない。ちょっとビックリしただけで」
 怪訝そうに見つめてくるからわざと視線を外し、は息を吐いた。
「悟空、知らないかな」
「あいつなら、確か牛魔王さんとチチと一緒に、広間の方にいたけど。なんか結婚の準備がどうのこうのと……まあチチとかが、勝手に言ってるだけかも知れないけどさ」
 チチと一緒。結婚の準備。
 言われた瞬間、それと分かるほど身体が強張った。
 は思い切り眉をひそめる。
「ちょっとあんた、何かあったの? 顔色悪いし」
「別に、なんでも」
「嘘言うんじゃないっ!」
 近距離で怒鳴られ、は思い切り肩をすくめた。
 の表情を盗み見ると、どうも本気で怒っているみたいで。
 言わないと、ここから一歩も動かさないと言わんばかりの勢いに、は暫く悩んだものの――結局、昨日あったことを話した。

「……………そう」
 聞き終えた後のの反応は、驚くほど冷静だった。
 冷静に見えているだけかも知れないが、少なくともにはそう見えた。
 の手を掴むと、玄関ホールに向かって歩き出す。
「ちょ、ちょっと!?」
「帰るわよ」
 どこへと問う間もなく手を引かれ、玄関付近まで来る。
 そこまで来て、が本気だと気づいたは、彼女の手を振り払った。
 は完全に頭に来ているみたいで、物凄い顔をしてを睨んだ。
「あたしはねえ、あの男に言っておいたのよ。不甲斐ない行動をしたら、と克也をくっつけるって! それなのにあいつっ……」
「で、でも……その、昨日の夜は何もなかったかも知れないし、結婚の準備がどうのって言うのだって、早とちりという可能性も」
 悟空が不甲斐ないとは言えないし、という言葉は発せられなかった。
 は完全に頭にきていて、の発言に被るように怒鳴る。
「嘘かホントか知らないけどね、あんたにそういう心配される状況は、あたしにとっては既に不甲斐ないのよッ!」
「でも私――」
 やっぱりちゃんと悟空に、本当はどうなのかを聞きたい。
 そう言おうとした瞬間だった。
 地面が大きく揺れ、建物全体が軋んだ。
 は言葉を飲み込み、周囲を見回す。
 は立っていられずにへたり込んでしまっていた。
「な、なにっ、なんなの、地震!?」
 たちのいる玄関ホールの床が、ミシミシ音を立てている。
 ゆっくり、けれど確実に床がひび割れて行く。
「ちょっとっ、早く外へ出ようよ! 潰されるんじゃないの、こんなとこにいたらっ」
 足元から感じる揺れは幾分治まったようなのに、建物全体は更に酷く軋んでいる。
 そうこうしている間に、通路から大勢の人が駆けてきた。
 その中には悟空とチチの姿もある。
 再度揺れが大きくなり、倒れそうになったチチを悟空が抱きとめた。
 怖がり、悟空に抱きつくチチ。悟空はチチの肩を掴み、大丈夫だと告げた。
 その時、は自分の中に、何かが落ちた気がした。
 ――悟空に答えを聞かなくても、チチさんとどうなったかは、今、目の前で見たでしょう?
「悟空!」
 は彼に声をかける。
 悟空は嬉しそうにを見、チチと一緒に駆けて来た。
! よかった、おめえも無事か」
「うん。も無事だよ。――ところで、牛魔王さんは?」
 みしりと床がひどい音を立てた。
 それと同時に、階段上の廊下を牛魔王が走るのを見かけ、チチが大声を上げた。
「お、おっとう!?」
「牛魔王のおっちゃん、何してんだ! 早く逃げねえと……!」
「おらの部屋にチチのウェディングドレスがあるだ! 取りに行ってくるで、悟空さチチを頼んだぞ!」
 ウェディングドレス。チチの母親の形見。
 牛魔王にとっても、おそらくはとても大事な品。
 ミシミシと床が悲鳴をあげ、割れた箇所から赤い何かが吹き出てくる。
 それが炎だと気付く前に、は牛魔王の後を追いかけていた。
!?」
 悟空の声が背中にかかる。
 は階段の縁に掴まって、舐めるように上がってくる炎に巻かれないよう気をつけながら、階下にいる彼に叫んだ。
「牛魔王さんを助けてくる! ドレスも護るから安心して!」
 その言葉に、チチが驚いたような表情になる。
 は苦笑し、牛魔王の後を追って崩れかけた廊下を走った。



「牛魔王さん!」
 廊下を駆け、幾つか部屋を抜けたところで牛魔王が部屋から出てきた。
 手にはウェディングドレスを大事そうに抱えている。
 彼はの姿を見て、驚いたように目を瞬く。
「お、おめえさん、なしてこんな危ねえトコに!」
「ちょっとした助けですよ。とにかく行きましょう! 私が来た方向は、もう火が凄くて通れませんから別の出口に」
 言う間にも、背後から炎が奔ってくる。
 は牛魔王と一緒に、廊下を駆けた。
 炎は意思を持っているかのように2人を追いかけ、ついでとばかりに部屋の扉を吹き飛ばす。
 赤々とした力は猛り、城全体を包み込む。
 牛魔王と一緒に逃げながら、この炎はどこから出ているのかとは考えた。
 地殻変動でのマグマ噴出では、まずないだろう。
 あくまでこれは炎だし、溶岩ならばもっとドロドロしたものも見えてもいいはずだ。
 周囲の熱が半端ではなく、走っていていつもより息が苦しい。
 炎よりも早く走り続けるなんて不可能だ。
「牛魔王さんっ、出口は」
「全部炎で塞がれちまってる! どうすべ!」
「――外からの救助待ちするなら、逃げてるしかないですが、このままじゃ焼け死んじゃいます! どこか、少しでも落ち着ける場所を!」
 後ろを見れば、立ちはだかるようにして炎の壁が迫ってくる。
 外に程近い廊下を駆けていると、ふいに青い閃光が目に入った。
 強い力の波動で、炎が一時的に弱まる。
「悟空のかめはめ波だ……」
 窓から身を乗り出し、外を見る。
 この状態なら出られるかも――。
 そう思った途端、目の前に火の壁が立った。
 熱風に襲われ、尻餅をつく。
さん! 危ねえだ!」
 窓から入り込んでこようとする炎に、は反射的にかめはめ波を使っていた。
 悟空より当然威力の弱いそれは、ほんの一瞬、火の勢いをそぐだけ。
 だが、体勢を整える時間は稼げる。
 は立ち上がり、牛魔王と一緒に上の階を目指した。
「これは普通の炎でねえだ! 芭蕉扇が必要だべ!」
「芭蕉扇……それ、悟空に伝えないと」
 だけれども、上手いこと伝えられるだろうか。
 何階かを登り、炎がきていないことを確認する。
 が叫ぼうとした折、丁度筋斗雲で城の中へ入ろうと試みていた悟空と目があった。
「悟空っ! 芭蕉扇を探して! それがあれば火が消えるかも知れないって!」
っ!」
「私なら大丈夫だから! ちゃんとドレスも牛魔王さんも護るからっ、約束するから、芭蕉扇をお願いね!」
 悟空の言葉を待たず、はその場から離れた。
 炎が、先ほどまで彼女がいた場所を被う。
ーーーーっ!」
 悟空は叫んだけれど、彼女の返事はなかった。


 牛魔王殿が揺れ、悟空が、倒れそうになったチチを抱きとめた時、の中に落ちた何か。
 それはとても重たくて、冷たくて。
 の中にあった、たくさんの村人たちからの言葉や、見てしまった物によって受けたひどい感情を更に揺り動かして。
 ちょっとのことなのに。
 もう、には悟空がチチを選んだかどうかなんて、聞くことができなくなってしまった。
 自暴自棄、とも似ている。とてもではないが、怖くて聞きたいことを聞けない。
 捨てられてしまうのなら、離れるべきなのなら、最後に彼にできることをしよう。
 だから――護るの。



護ることが、最後にして最大のことだと、彼女は思っています。
2006・7・1