今日も悟空に会わなかったなあ、なんて思いながら、は牛魔王殿の庭に出た。
 庭の中央にある噴水の縁に腰を下ろし、細く長い息を吐いた。
 フライパン山へ来て、実に2週間が経過。
 疲労が感じられなくなるほど、の心は摩滅していた。



 落明愁夢 14



 城の上、月輪からは晶光が降り注ぐ。
 何を考えるでもなく、ただ座って城を見つめていた。
 深夜に近い時刻のため、城の明かりはそう多くはない。
 所々に点けられた明かりは、月の光に慣れたの目には、明るすぎるかも知れない。
 こんな所でぼーっとしている場合じゃない。
 明日のことを考えれば、すぐに寝た方がいいに決まっている。
 それなのにいざ部屋へ戻って寝ようとすると、全く寝付かれなかった。
 ここへ来て2週間。
 その半分以上、はこっそり外で寝てしまっていた。
 に見つかてしまい、怒られることもあったけれど、大抵は彼女に見つかる前に部屋に戻り、何食わぬ顔をしておはようなんて言っている。
 別に外で眠りたいわけじゃない。
 ただ、が外で寝ていると、なぜか猫やら鳥やらが寄ってくる。
 その温もりが優しくて相手をしていると、いつの間にか眠ってしまっているのだ。
 村人から、『チチ様と悟空様を邪魔するな』という、無言の圧力を常々受けている
 やってきてくれる動物に、少しばかり助けてもらっている。
 としては、毎回部屋に戻って寝ようと思っているから、掛け布団も何もないわけだが、この近辺の気候に助けられて、今のところ風邪を引いたりはしていない。
 ふと太腿に温かなものが乗っかった。
 下を見ると、いつも外で寝てしまったときにやって来る猫が。
「ああ、また君かあ。こんばんは。……それにしても、君はどこのネコ? 放牧ならぬ、放猫……なんてことはないよね」
 頭と背中を撫でてやると、猫は小さな声で鳴き、の腿の上で丸まった。
 時折尻尾を振り、あくびをする。
「私は君の名前も知らないね。今度誰かに聞いてみようかな……」
 にゃぅ、と鳴く。
 は目を瞬き、小さく笑んだ。
「あはは、今のは肯定の返事かな、それとも駄目だってお返事?」
 当然言葉を理解しているわけではなく、猫はまた静かになった。
 ――悟空は、今日は何をしていたんだろう。
 近くにいるのに、凄く遠く感じる。
 異世界とこちらの世界。
 隔てられていたときも酷く遠く感じたものだが、こうして同じ地に足をつけていて、それで出会えないのはもっと辛い気もする。
 辛いことを考えると、もっと辛くなるのに――。
 は失笑した。我ながら情けない。
 悟空に甘えたくないからと必死になって、持ち堪えるのが2週間とはお笑い種だ。
 彼に会えないことが、飢えや渇きのよう。

 深々とため息を落とすに、大きな影がかかった。
 上を向くと、吊りズボンを穿いた牛魔王が立っていた。
 彼は無言のままでの隣に座る。
 猫は一旦むくりと顔を上げたが、興味がなさそうにまた丸くなった。
「……牛魔王さん、お休みじゃなかったんですか?」
「部屋からお前さんの姿が見えてなあ。ちょっくら、話でもしようかと思ってよ」
「お気遣いさせてしまって、すみません」
 申し訳なさそうに言うに、牛魔王が失笑した。
「おめえさんは、ほんに優しい子だんべ。……なしてこんな風になっちまっただかなあ」
「こんな風って?」
「悟空さのことだべ。チチも、おめえさんを心から憎んでる訳じゃねえだよ」
 多少なりと憎まれているとは思う。
 当然だろうし、それについてとやかく言う気はない。
 だって聖人君子ではないわけで、当然チチに嫉妬だってする。
 だったらお互い様かも知れないし。
 は苦笑し、牛魔王を見やった。
「憎まれて当然のことをしてる自覚はありますから」
 牛魔王は肩をすくめる。
「そっだらことねえべ。……それに、チチの下女なんてやらしてまって……申し訳ねえだ」
「それこそ、謝ることじゃないですよ。私が勝手にやってることなんですから」
「村人たちも、チチと悟空さの結婚を楽しみにしてただよ。準備を――」
 牛魔王の言葉が切れた。
 首をかしげるに、彼は視線を地面に落とし、暫く考えた後に口を開いた。
「…………なあ、さんよ」
「はい」
「………悟空さのこと、諦めてくれねえだかな」
 は目を瞬く。
 膝の上の猫が、むくりと顔を上げた。
 牛魔王は視線を地面に固定したまま、ひどく辛そうに、申し訳なさそうに言葉を綴る。
「チチは、ずうっと小せえ頃から悟空さの嫁になるんだって、頑張ってきただよ。優しい、気立てのいい大事な娘だ。父親として、娘には幸せになってもらいてえだ」
 息を吐き、牛魔王は続ける。
「小せえ頃に母親を亡くして、ワシが男手ひとつで育ててきた。その娘がこれ以上ないほどに惚れた男に、嫁がせてやりてえだよ。村人も悟空さが来たのを知って、結婚式の準備さ始めてただ」
 心臓に針が刺さった気がした。
 針なんて、生易しいものではなかったかも知れないが。
「父親の勝手な言い草だが……どうか悟空さを諦めてくれねえか。母親のウェディングドレスを着せて、結婚式さやってやりてえだよ」
 の返事を聞かず、牛魔王は立ち上がった。
 彼は深々と一礼すると、その後は何も言わずに城へ戻って行ってしまった。

 残されたは、今しがた耳にしたことを咀嚼しようとして――何も考えられなかった。
 猫がの指先を舐め、そうしてひと鳴きする。
 それでも動かないに、諦めたみたいに猫は離れて行った。
 ――諦めてくれ、なんて。
 それで簡単に諦められるはずもないし、諦めるつもりもない。
 だけれど、どうして人の言葉というのは、こんなにも心に刺さるのだろう?
 怒りでなのか、単純に思考が空回りをしているせいなのか、頭が熱い。
 無性に、悟空に会いたかった。
 空元気も限界で、やはり人間は一朝一夕では変わらないのだと、思い知らされる。
 妙にスッキリしない気持ちを抱えて立ち上がると、は城へと向かった。


 悟空の部屋の前に立ち、いざノックして声をかける段になり、は迷った。
 彼はもう寝ているだろう。
 扉を叩いた音で起きるとも思えないし。
 かといって、いきなり中へ入るのも躊躇われ。
 たっぷり10分は迷った末に、結局ノックした。
「……悟空、起きてー」
 中に聞こえる程度の声で呼びかける。
 返事はないが、物音はしている気がした。
 首をかしげ、もう一度ノックしてみる。
 今度は数分と経たずに扉が開いた。
「――え」
 でも、出てきたのは悟空じゃなくて。
 は思わず数歩後退り、目を瞬いて正面に立つ者を見つめた。
 ――なんで、どうして。
「チチさん……?」
 どうして彼女が悟空の部屋か――しかも夜に――出てくるの?
 その身に白いシーツを巻いている彼女。
 肩は露出し、随分と色っぽい格好になっている。
 驚くばかりで声が出てこないに、チチは胸の辺りでシーツをぎゅっと握り締め、
「……邪魔しねえでけろ。悟空さとおらは、夫婦の契りを交わしただからな。おめえさんの出る幕はもうねえだよ」
 眉をひそめて言った。
 動かない、否、動けないに、チチは扉を開く。
 ベッドの上には、悟空がブランケットにくるまって眠る姿があった――チチと同じような格好で。
 それを見て、の頭蓋が一気に過熱する。
 同時に強烈なまでの理性が流し込まれ、あまりの感情の上下にクラクラした。
 チチは信じられないという表情のを見つめ、場にそぐわぬほど綺麗に微笑む。
「おらももう寝るだから、おめえさんも部屋に戻って寝るといいだ」
 言い、チチは悟空の部屋に戻っていく。
 は扉が閉まる音を耳にし、それからやっと、身体がまともに動くようになった。
 何も考えずにいたかった。
 泣きそうだという自覚はあったが、こんな所で大泣きなんてしたくなくて。
「……部屋。部屋戻ろう」
 どこをどう通って部屋に戻ったか分からない。
 気付けばは与えられた部屋にいて、ベッドに突っ伏していた。
 目頭が熱い。
 同じぐらい、頭も熱い。
「悟空がチチさんと――なんて、信じない」
 信じないと言いながら、じゃあ何故泣いているのだと問われれば、答えられないだろうと思った。
 信じていない。
 だけれども、完膚なきまでに否定するには、自分に自信がなさすぎた。
 悟空に聞けばいいのだろうけれど、たぶん聞けないと分かっている。
「……………ごめんなさい」
 誰にともなく謝った。
 謝ると同時に、涙が一気に溢れてきた。
 雫と嗚咽は枕に吸い込まれる。
 折れては駄目なのに、折れてしまった。
 頑張ると言ったのに、頑張りきれなかった。
 もう、何をどうしたらいいのか分からない。
 悟空がチチを選んだとしか思えない。
 悟空を信じていないわけじゃないのに、心が四散してしまったみたいに掴めない。
 それほどに、先ほど見た光景がショックだった。

 散々泣きはらして涙がひと段落つく頃には、深夜どころか夜明けが近いような時間になっていた。
「……腫れぼったい顔で仕事できないよね……目、冷やそう」
 洗面所でタオルを水に浸し、絞る。
 ベッドに戻ってそれを目蓋の上に乗せた。
 皆が起きるまでに、すっかり腫れが引いてくれればいいのだけれど。
 特にには見つかりたくない。
 何で自分のところへ来なかったと、怒られること請け合いだから。




所謂、王道的展開。悟空がヘタレで申し訳ない…。
2006・6・30