落明愁夢 7 家に帰ってきたは、未だ片手を掴んでいる悟空に目線をやる事ができず、居心地の悪い気分のまま居間へ向かう。 靴を脱がぬままに上がろうとする悟空を慌ててが止めた。 「玄関で靴脱ぐんだよ。汚れちゃんでしょ」 「あ、そっか」 悟空はを引っ張って止まらせたままで靴を脱ぎ、家に上がる。 はの事を心配そうに見ながらも、とりあえず今のところは何を言うでもないままだ。 とにもかくにもリビングに入る3人。 ソファに座ろうとした悟空に、は声をかけた。 「……悟空、手を離して」 「なして?」 「……なんででも。逃げたりしないから」 彼は暫く考え込んでいたようだが、名残惜しげに手を離した。 は胸の前で手を握り、を見る。 「私、着替えてくるね」 「ああ……うん。お茶勝手に貰うよ?」 うん、と頷き、は足早に2階へと向かった。 廊下を進み、自室に入ってドアを閉めると、今まで我慢していたものが溢れてきてしまった。 ぼろぼろ零れる涙。 悲しいのか、それとも嬉しいのか。 ないまぜになった気持ちは解ける気配を全く見せず、完璧に自分の状況を持て余してしまっている。 どうして悟空がここにいるのか。 界王――父親が手を貸した事は間違いない。 問い詰めたくなるが、この世界では父との意思疎通ができない。 深くため息をこぼし、涙を拭う。 制服を脱ぎ、ベッドの上に放り出してから私服に着替えた。 ここでこうして燻っていても仕方がない。 もうひとつ深いため息を転がし、は自室を出た。 着替えにたっぷり1時間もかかっていたという自覚は、全くない。 「遅ぇなあ……」 悟空は出された紅茶を空にし、はふ、とため息をついた。 向かいに座っているは複雑な心境で悟空を見ている。 ――これが、の想い人。 今までずっと想い続けてきて、結局、の想いが届かなかった男。 明るく、人懐っこい雰囲気をかもし出している。 癖のある髪が特徴的で、けれどそれ以上に純粋そうな瞳がもっと印象に残る。 決して嫌いなタイプではないし、むしろ好感を持てる男だ。 彼女の友達としては、文句をたくさん言いたいところだったが、はそれをしなかった。 それは、が自分ですべき事だからだ。 にはの代弁などできない。 彼女の気持ちを、自分が生半可に言う事はできないと思っているからだが、こう暢気にされていると脱力してしまう。 「……自己紹介してなかったわね。あたしは香坂。の友達」 「オラ、孫悟空だ」 「から名前はよく聞いてた。けど、まさかこっちに来るとは思わなかったけど」 紅茶を飲み、空になったカップにまた琥珀色の液体を注ぎ込む。 悟空にも注いでやった。 「アンタ、の事を捨てたんでしょ?」 「捨ててなんてねえよ」 なに言ってんだ? とばかりに本気で首を傾げる目の前の男に、はなるほどと頷く。 彼は確かに常識的ではないようだ。 一般に精通していないというか……良くも悪くも、自分の中にあるルールに従っているのだろうと思う。 「でもさ、結婚するって決めたんでしょーが。誰だか知らないけど、その……ええと、なんつってたかしら。牛乳じゃなくて胸でもなくて……チチ?」 チチの名を出すと、悟空は肩をすくめた。 「……オラ、結婚さしねえよ」 「一旦するって決めたんでしょうに」 「だって。あん時は……よく考えてなかったしよぉ。約束は守らねえとって……」 「約束って……確か、そのチチと小さい頃に結婚の約束したってやつ?」 こくんと頷く悟空。 ――なるほど。 真っ直ぐな故に、自分の気持ち云々の前に、目の前にあった約束という束縛に囚われたか。 深くため息をつく。 、アンタの想い人は確かにカッコイイけど、所謂、凄い馬鹿だな。 真っ直ぐで素直すぎる。 そういう所に惹かれたのかも知れないけども。 「で、アンタはどうしたいの。こっちの世界に来るのだって容易じゃなかったでしょう」 「オラ、を連れてけえる」 「連れてってどうするんのよ」 「――結婚する」 ――は? は唖然とした。 お付き合いをすっ飛ばして、結婚!? なんというか、チチという人もそうだが……向こうの世界の人は、プロセスなど関係がないのだろうか。 いや勿論こちらの世界にだって、そういう段階をすっ飛ばしてしまう人も多々あるが。 しかし問題なのは、今、は悟空を忘れようと必死になっているという事で。 たとえに改めて求婚したとして、彼女はYESを言うかどうか。 恐らくは言うまい。 チチの事を考えるが故に、自分の気持ちを引っ込める。 そういう性格だとは思っている。 少なくとも、今は闘うに足りる理由がない。 一旦心を決めてしまえば彼女はひどく強いが、揺らいでいる間はダメだ。 考え込んでいるに、悟空は首を傾げる。 「どうかしたんか?」 「……ちょっと聞くけど、そのチチって人は結婚撤回を理解してるわけ」 いんや、と首を横に振る。 「オラ、話しようとしたけんど……がいねえと聞いてくんねえんだ」 「なんで」 「知らねえよ……」 想像の範疇ではあるが、おそらくチチは悟空と絶対に結婚したいと思っているからこそ、がいない限り会話に応じない、としているのだろう。 いなければ、それを理由にして無理矢理にでも結婚してしまうつもりだったのかも知れない。 だが、彼女にとっては不幸にも、彼はこちらに来てしまった。 チチに関しては可哀想に思うが、は見知らぬ相手にそれほど心を痛められない。 むしろ、こんな状況になってしまった自分の友達の方が、酷く可哀想に思える。 「ま、あたしはアンタが本気ならばそれなりに協力するけど? には幸せになって欲しいからね」 「ブルマとおんなじ事言うんだな、おめえ」 いつ聞いても違和感のある、向こうの世界でのの友達の名に小さく笑う。 その直後にが戻ってきた。 随分と辛そうな……とが思っていると、同時にインターフォンが鳴る。 「誰だろ」 の代わりにがモニタを映す。 扉の前にいる人物が、青白いモニタに映し出された。 「あ、兄貴じゃん」 「克兄ちゃん……学校どうしたのかな」 まさかと思いながらが出る。 直ぐに彼を連れてリビングへ戻ってきた。 の兄・克也は悟空の姿を見て驚き、眉根を寄せたが、何を言うでもなくに微笑む。 「と2人で早退したって聞いて、俺も早退して来たんだ。どうせもこっちだろうと思ってさ。お前ら2人にしとくと、何するか分からないからな」 「しょうがないでしょ」 この心配性が、と思いながら兄の背中を叩く。 苦笑いしつつ、克也は悟空に視線を向ける。 「俺は香坂克也。の兄だ。……君が孫悟空か」 「ああ、オラ悟空だ」 ニカッと笑う悟空に対して、克也は笑顔ではあるけれど、どこか険がある。 「ところで、君――悟空はどうしてここに?」 その一言で、悟空が説明を始めた。 戻ってきたはと克也に挟まれて座り、正面にいる悟空となるべく目を合わせないようにしている。 悟空の説明は、あらゆる所を省き、ひどく簡潔に終了した。 つまり、 「オラ、を連れ戻して結婚する」 という非常に短い言葉だけだ。 それに驚いたのはだ。 「ご、悟空はチチさんと――」 「、オラが悪かった。戻ってきてくれ、な? 一緒にけえろう」 真剣な表情に、の気持ちが揺れているのが分かる。 は、もしかしたらこのまま素直にくっ付いてくれるかも――と思っていたのだが。 横合いから抗議の声が上がった。 「ちょっと待て、俺は許さない!!」 「兄貴!」 が鋭い声を上げる。 しかし克也は憤慨やるかたないとばかりに、悟空を睨みつけていた。 「冗談じゃない。君は、一度を振ったんだろうが。それなのに手の平返してそんな簡単に」 「嫌だ。オラはもうぜってぇ退かねえ。約束より大事なもんがあるって分かったんだ」 ばちばちと火花を散らしているのは克也だけで、悟空のほうは似つかわしくないほど静かに語りかけている。 突如現れたの想い人に、いきなり結婚するんだなどと言われ、完璧に頭に血が上ってしまっている克也は、悟空の側により胸倉を掴もうとした。 止めようとするの声より早く、悟空は克也の腕を掴んで止めていた。 「っく……」 「止めろよ。オラ、誰も怪我させたくねえんだ」 「畜生っ」 本気で力を込める克也の手を、赤子も同然に止める悟空。 同年代に力で押し負けることがなかった克也は、歴然とした差に奥歯を噛む。 もがく克也の手が、偶然にも悟空が身に付けていたネックレスを引きちぎった。 かつん、と音を立て、トップについていた青い石がテーブルの上に落ちる。 「……これ」 はその石を手に取る。 あちらから別離する時に消えてしまっていた、自分の持ち物。 「あ――」 手の平に乗せた瞬間、石は白光し始め――あっという間に視界がなくなるほど強い光を放ち出す。 なに、と声を上げる暇もなく、一同は光に飲み込まれた。 抜けた先にある世界。 は途端に感情が溢れ出すこの感覚に、やはり自分はこちら側の人間なのだと再確認する。 けれど。 ――戻りたく、なかった。 あっさり異世界からご帰還。なんもなくて申し訳ない。何れは書きたいなあ、ギャグで。 2006・6・10 戻 |