落明愁夢 6



 自分の育った世界に戻ってきてから、1ヶ月が経とうとしている。
 既に生活面では、以前と同じように生活できていた。
 以前とは違ってしまっているのは、家に親というものの姿がなく、ただ独りで生活しているという事だ。
 かつてあった温かみは、今ではごっそり抜け落ちてしまっている気がした。
 これが自分が選んだもの。
 一旦覚悟を決めた――それを覆(くつがえ)した、自分の弱い心が選んだものだ。
 簡素な朝食を済ませ、は鞄を手にする。
 玄関の冷たい扉を開き、
「……いってきます」
 誰にともなく言った。


 通学の途中でに会い、挨拶を交わしてそのまま2人で歩いていく。
「今日の数学、あたし当たると困るんだよねー」
「私も困るよ。だって予習してないもん」
 差し障りのない雑談をしながら、に感謝していた。
 今はもう手の届かない好きな人の事を、彼女は決して聞いてこなかったから。
 彼女の兄でもある克也もそうで、殊更早く、過去を消してしまおうとしているかのように思える。
 自身、日常に埋没してしまおうとしていた。
 今までの全てが夢だったのだと思わなければ、壊れてしまいそうだったから。
 ――否、既にどこかがおかしいと分かっている。
 に言わせれば、
『小学校のいじめられてただけの頃に、逆行しちゃったみたい』
 だそうだが、にその自覚はあまりない。
 いつも通り笑っているし、元気にしているのだから。

 教室に着くと、既に大半の生徒が登校して来ていた。
 が入ってきて1ヵ月であるが、殆どの生徒たちと仲良くやっていけている。
 中学校からの繋がりがありなんとか入学できたのだから、この状況は自分にとって幸いとも言えた。
 埋没してしまえと、何度も自分に言い聞かせながら生活している。
 以前とは違う、埋没できない部分――様々な力と技を着けた身であるが。
「ねえねえ
「ん?」
 前の席にいるが、くるりと後ろを向いて話しかけてきた。
「今日さ、あたし泊まりにいっていい? 明日折角土曜日だしさ」
「うん、いいよ」
「やった! 実はもう荷物持ってきてんだよねー。断れらたらどうしようかと思ったわ」
 あははと軽く笑うの机には、確かに普通より大きい荷物が引っかかっている。
 かなりコンパクトに纏めてきたようだ。
「夕食なにがいいかな」
が作るんだよね。だったら当然ビーフストロガノフ!」
「無理。オムライスにするから」
 仕方がないなあとが軽く笑ったところに、先生が入ってくる。
 勉強時間は嫌いだ。
 ――いろいろな事を考えてしまうから。


 は気付いていない。
 悟空が、今まさにこの場所に近づいていたなんて。



 授業も半ばを過ぎた頃、はなんだか奇妙な感覚に胸が跳ねたのを自覚した。
 首を傾げ、周囲を見回す。
 けれど確たる異常はなくて。
 の素振りに気付いて、小さく「どうしたの?」と声をかけてくる。
 なんでもないのだとも言えず、ただ辺りを見回した。
 教師は生徒に背を向けているため、の様子に気付かない。
 段々近づいてくる。
 邂逅の予感。
 知らず「止めて」と誰かに願っている自分に、は更に落ち着かない気持ちになる。
 ふっと、廊下に視線を走らせた瞬間だった。
 ――在り得ない人物が視界に入って来たのは。
 酷く荒々しい音を立て、その人――悟空が入ってくる。
 一斉に向けられた視線など意にも介さず、彼はだけを見つめていた。

「――っ!」

 その声は確かに彼のもので。
 姿も、彼で。
 でも、ここにいるはずがないのに。

 思考だけが空回りし、けれど身体は自然に動いていた。
 は慌てて立ち上がると、悟空が入って来たのとは逆の方向に視線を向けた。
 どうして彼がここにいるのか知らないが、今のにできる事はひとつ。
 ――逃げなくては。
 未だ、気持ちは治まっていない。
 彼は他人の夫になるんだ。いや、もうなっているのかも。
 せっかく無理矢理に押し込めている感情を、また表に出してしまったらどうなるか分からなくて、怖くて。
 走っても追いつかれるに違いない。
 でも、逃げなくちゃ。

 ――つらいのは、もう、いやでしょう?

 は思わず校庭側の窓に駆け寄り、サッシに足をかけた。
 どう見てもそこから飛び降りようとしている様子に、教室全体がざわめく。
 教室は3階にある。普通に考えて、飛び降りられるような高さではない。
 教師は、慌ててに落ち着けと声をかけたが、彼女は反応しなかった。
っ、待ってくれよ!」
 悟空の声。
 は体を窓の外に躍らせた。
 背後から盛大な悲鳴が溢れ、みなが一斉に窓へ駆け寄った。
 は途中で速度を落とすよう、くるりと回転して難なく着地する。
 そのまま何も見ずに駆け出した。

 ――だが。
「待てって!」
 走って、出来るだけ遠くへと思ったのに。
 校門を出たところで、追いかけてきた悟空にあっさり掴まってしまった。
 強く手を掴まれて、逃げられない。
 本気で力を込めても、彼の手は外れない。
 悟空は慌てた様子で語りかける。
、オラ――」
「なんで……離してよ……」
 言葉が詰まって上手く出てこない。
 掴まれているだけなのに、足も動かない。
 どうすればいいのだろうという言葉だけが、ぐるぐる回る。
 彼から顔を背けて立っていると、が全力疾走でやって来た。
「はぁーっ、はぁっ……ったく……なに考えてんのよっ、あんなとこから飛ぶなんて! 人外の行動は控えるって約束でしょうがっ!」
、ごめん。でも」
 ――でも、逃げたかったの。
 その言葉はノドの奥に飲み込み、押し黙る。
 は息を整え、悟空とを見比べると息をつく。
「……とにかく、事情はよく分かんないけど、アンタの家にいこう。このままでいても仕方がないでしょ」
「でも、学校……」
「さっきのドサクサに紛れて出てきたわよ。2人とも早退しますーって。先生もあっさり了解したしね、相当パニクってたわね、あれは」
「…………そっか」
 は俯いたまま息を吐く。
 悟空は心配そうにを見つめていたが、と彼女が歩き出すと、大人しくその後についていった。
 ――彼は決して、掴んだの手を離さなかった。






こんな状況でなければ、色々やらせたいです…(汗)
2006・6・9