昔々 現在の住んでいる場所からサタン邸のある――誰がつけたかサタンシティ――街の中核までは、少々距離がある。 そう遠くはない。ただ、歩きで行くには遠い距離。 は仕事先のマスターに頼んで、サタンシティへ連れて行ってもらう事にした。 マスターはそれを快く承諾し、をシティへ届けた後、仕事のために元の街へと戻っていった。 ズボンとシャツ、腰周りで固定する小さなバッグという、かなりの軽装でサタンシティへやって来た。 この辺はまだそうではないが、少し遠くを見やれば高層ビルが立ち並んでいる。 ビル群へ向かうのだろうか。 オフィスワーカーらしき、灰色の建物へ向かって足早に進む姿が結構あった。 買出しなどでサタンシティを移動したことがあり、割合土地勘はある。 ただ普通に考えて、サタン宅まで行って入れると思えなかった。 何しろ彼は有名人だ。 「とにかく、行かなきゃ」 街まで来たからには、やる事をやる。 でなければ無駄足になるし、こちらの事を心配してくれる孫家の皆にも悪い。 腹を据え、はサタン邸まで歩き出した。 「まあ……素直に入れるとは、思ってなかったんだけど」 サタン邸を見て呟く。 敷地の殆どが家ではないかと思わせる重厚な邸宅が目の前にある。 門番というのか、警備の人物が門の左右に1人ずつおり、ご用聞きのインターフォンは右の警備人の近くにある。 『ここの娘らしいです』などという事を言えば、すぐに追い払われてしまうだろう。 どうしたものかと考えていると、背後から声が掛かった。 振り返り目を見開く。 こちら側が口を開く前に、向こうが話しかけてきた。 「ねえ、わたしの家になにか用?」 「え、あの……うん」 黒髪の少女。 強い意思を持った瞳。 テレビでしか見た事がないが、紛れもなくの目の前にいる彼女は、ミスター・サタンの娘、ビーデルだった。 怪訝そうな表情で見つめるビーデルに、はなにを言おうか一瞬考えた後、結局答えが見つからず―― 「私もミスター・サタンの娘らしいです!」 という、奇妙に気合の入った言葉を発した。 ……。 ………。 「ちょっとあなた、大丈夫?」 頭をかりかり掻きながら言うビーデルに、は覚悟を決めた。 「お願いします。ミスター・サタンに会わせて下さい。知りたい事があるんです!」 余りに必死だったのだろう。 ビーデルは暫く怪訝そうな表情でを見ていたが―― 「いいわ。わたしがパパに言うから。ついてらっしゃい」 諦めたようにを誘って入り口へと向かう。 ありがとうとお礼を言う間もなく、はサタン邸の中へと連れ入れられた。 広間にはシャンデリア。 そこを抜けて応接間へと通される。 ちょっと待ってて、と言い放って部屋から出て行ったビーデルを待つ間、はゆったりとしたソファに座ってじっとしていた。 豪華絢爛な応接間。 孫家や自宅のすっきりとした部屋に慣れているには、世界の違いを感じさせられる。 ここは確かに世界チャンピオンの家で、(今は中の都に本拠が移動しているので、ここは実質別荘らしいのだが)ビーデルはその娘で。 ……少し来た事を後悔したが、今更な話だ。 そうこうしているうちにドアが大きく開き、テレビでしか見た事がないミスター・サタンが現れた。 を見た瞬間、彼の目が大きく見開かれる。 「パパ、早く行ってよ」 後ろで小突いているのはビーデルだ。 サタンは、こほん、とひとつ咳払いをすると、ビーデルを部屋の外へと押し出す。 「ちょ、ちょっとパパ!?」 「ビーデル。わしはこの娘と2人で話をするから、お前はあっちに行ってなさい」 「だってその子、わたしの姉妹かもしれないんでしょう」 ぐ、と詰まった様子が見て取れる。 しかしサタンは意見を変えず、 「後できちんと報告するから」 言うだけ言って、ばたんと扉を閉めた。 「……ふぅー」 大きくため息をつくサタン。 その姿からは、世界チャンピオンの気負いなどというものは感じられない。 とはいえ、はセルを倒した本当の人物を知っているから、そう驚きもしないけれど。 サタンはの向かいの豪華なソファにどっかと座り、顔をまじまじと見てきた。 その間、暫く無言。 先に口を開いたのは、サタンの方だった。 「……、という名前だったな」 「そうです。ミスター・サタン。私は、私の両親――育ての親から、少し話を聞いています。それで、本当かどうか分からないけれど、とにかく貴方に会いたくなって」 話を続けようとするを、サタンは手で制した。 落ち着きなさいと言われた気がして、は小さく息を吐く。 確かに少し――否、かなり焦ったり慌てたりしている。 サタンは呼び鈴を鳴らし、メイドに飲み物を持ってこさせた。 はコーヒーを頂く。 「お前は、確かにわしの娘だ。お前の育ての親が亡くなった事を、つい最近耳にしてな。……人を使って捜させたが、既にお前はどこかへ行ってしまっていた」 「両親の遺言で――離れていたんです。今はこの近くに住んでますけど」 「そうか」 サタンがコーヒーに口をつける。 も同じくカップに口をつけた。 緩々とした時間が流れる。 としては、さっさと確信に触れたい所だったのだが、どう聞いて良いのか分からないし、聞くべき人物は目の前に居るのだからと、自分を抑えていた。 「……わしの妻は、人並みならぬ優しい心の持ち主でな」 コーヒーカップの中を見つめながら、サタンが話を始める。 はサタンの姿をしっかり見つめ、話を聞いていた。 「ある日、わしが試合を終えて家に帰ると、ボロボロで今にも死んでしまいそうな程、悲愴な顔をした夫婦が応接間にいた」 サタンは苦笑する。 「困惑したよ。わしの知人ではなかったし、もちろん、妻の知り合いでもなかった」 彼は言葉を続ける。 「彼らは、生まれたばかりの自分の子を捨てた親だった。――とにかく彼らは後悔していた」 は静かにサタンの言葉を待つ。 指先が冷えていた。コーヒーの入ったカップの暖かさが、とても優しい。 「子を捨てて大分経っていたらしい。今は生きてはいないであろう子に償いたくて、命を捨てようと決心し、彼らは街を放浪していた」 サタンシティは――以前は別の名称だったが――区画によってはは酷く荒れている。 今ではマシになったが、スラム街区画も存在した。 昼となく夜となくいれば、殺されても文句は言えない。 それほど荒れた場所だった。 そこでサタンの妻は夫婦を見つけ――放っておけず、家に引っ張り込んだそうだ。 「その夫婦が言うには、ずっと以前に不思議な力を持つ自分の子に恐れを抱き、とある都に捨てた。しかし――」 「罪悪感から、全てが上手くいかなくなった」 が呟く。 サタンは頷いた。 「どんな事情があれ、子を捨てた親に幸せなど訪れない。彼らは自らの罪に耐えきれず、危険地帯に足を踏み入れることで、間接的に命を断とうとしていた。それが子供への償いになるとも思っていたようだ」 それを聞いたサタンの妻は、子を捨てた事に酷い憤りと怒りを感じ、また同時に、捨てた事を悔やんでいる夫婦を哀れに思った。 当時、サタン夫婦には2人の娘がいた。 5歳になる、双子の姉妹。 「は覚えておらんだろうな。……あの夫婦についていくと言って聞かず、離れようとしなかった」 「私、が?」 「『私が2人の子供になるから、泣かないで』……何度も何度もそう言って、夫婦を慰めていた」 数日間、サタン家で一食暮らしたその夫婦。 を実の親よりも大事にし、もよく彼らになついた。 サタンの妻は、サタンが止めるのも聞かず、その哀れな夫婦に――子の1人を譲ることにした。 勿論、悩まなかったわけではない。 けれど、この世からあの世へと、今すぐにでも向かっていきそうな夫婦を見て、優しすぎるサタンの妻は、なにもせずにはおれなかった。 子を捨てた事を心の底から悔いている夫婦に、サタンの妻は約束をさせた。 「この子は私の子です。けれど、あなた方の子でもあります。サタン家の子供でもある事を、いつかにきちんと理解させて下さい。それを約束して下さい。そして、この子を幸せにして下さい。捨ててしまったお子さんへの償いも含めて」 夫婦は約束を必ず守ると言った。 実際それは、両親が死ぬまで守られたわけだが。 サタンはの目をしっかり見て告げた。 「お前はビーデルの双子の姉だ。――わしの娘」 「……言ってくれて、ありがとう。すっきりしました。――とても」 は丁寧にお辞儀をした。 サタンは微妙な顔をして言う。 「これから、どうする」 「私は今自活してるので……それに、お世話になってる場所もあるし」 それはあんに、この家では生活しないと言っているものだった。 彼は肩を落としながらも、妙に納得した様子で頷いていた。 「分かった。だが、今日ぐらいは泊まって行ってくれ。ビーデルにも思うところがあるだろうからな」 「はい、分かりました」 はサタン邸で一泊する事になった。 2008・10・28 |