チョコレートとユメ



 バレンタインデー。
 浮き足立つ女子、そわそわする男子。
 それは学校という空間でも、全く変わらない。
 その中にいて、はひとり、ため息をついた。

、どうかしたの?」
 同じクラスの友人、香坂由依が前の席から声をかけてくる。
「別になんでもないよ」
 完全に上の空状態で言葉を吐く。
 由依は長い息を吐くと、椅子にまたがるようにしてと向き合った。
「ねえ、もしかしてバレンタインに関係あるワケ?」
 無言の返答をする。
 つまり、肯定。
 その様子に由依はまた長い息を吐いた。
 机の横に引っかかっているのカバンに視線を移した後、またため息をつく。
 今日の由依はため息ばかりだ、とは思った。
「……だって。あげる人がここにはいないんだもん」
 俯き、呟く。
 言葉にしてしまうと、胸に苦い物が上がってきた。
 そう――ここには、いない。
 この<世界>には。
 の好きな人事情――『強い人が好き』と知っている由依は、重症だとばかりに首を横に振る。
「でもさ、その――義理とかでも」
「……義理? ああ、義理かあ……考えてなかった」
 完全なる失念。
 由依の兄にはお世話になっているから、義理ぐらいあげるべきだったと思うが、今更とも言える。
「ま、兄貴には私が兼用で贈っとくわ」
「ご、ごめんね」
 申し訳ないと頭を下げる。
 彼女は頬杖をつき、片手でパタパタと空気をあおいだ。
「別に平気だよ。ウチの兄貴、毎年抱えるほどチョコ貰ってくるし」

 自室に戻ったは、学生カバンの中から丁寧にラッピングしてある箱を取り出し、机の上に置く。
 ――ひどく寂しい。
 母親はまだ帰宅しておらず、家の中は寒々しいほどに静かだ。
 は机備え付けの椅子に座ると、ラッピングをはがしにかかる。
 一度、自分で丁寧に包んだそれを引き剥がす。
 中から、チョコレートの入った透明な箱が出てくる。
 ずっとカバンの中に入れていたため、チョコは定位置からずれて、全体的に上に寄っていた。
 カバーを開け、チョコレートを一切れ取り出し、口に放り込む。
 湯銭にかけて自分で作った、完全に手作りのバレンタインチョコ。
 けれど、あげる人がこの世界にいないのなら、それは無駄なものに等しい。
 それでも作れずにいられなかった。
 口の中で融けていく、甘い塊。
 彼がこれを口にしたら、「甘ったるい」と言うかも知れない。
「……あげたかったな……」
 ぽつり、呟く。
 仕方がないことなのだけれど。
 彼は今、どうしているのだろう。
 分かれた時の姿形を、は強く思い描いた。
(これを彼に届けたい)
 自分の想いじゃなくていい。
 チョコだけでいい。
 だから。
 ……。
「……チョコレート抱いて寝たら、向こう側行けるかなぁ」
 やってみようかと考え、直ぐにやめる。
 チョコレートを抱いて寝たりしたら、溶けて大変な事になるだろうことは、容易に想像がついたからだ。
「届けた事を忘れちゃってもいいから――届けたいな」
 寂しげな声色で言う。
 口にすれば、それが叶うような気がして。
 ゆっくり瞳を閉じ――暫くしてから、少しずつ瞳を開く。

「……夢?」
 小さく呟く。
 瞳に映るのは、あの頃と殆ど変わりのない悟空の姿。
 世界を認識できるほど、空間は開けていない。
 自分の体がどこにあるのか分からないけれど、今、己が立っているのは間違いなく<彼の前>で。
 悟空は驚いたように瞳を丸くして、それから嬉しそうに笑んだ。
! うっわー、おどれえた。どうしたんだ!?」
 耳を打つ声。
 泣きそうになっている自分を押し留め、も微笑む。
「えっとね、よくわかんないんだけど――私、これを悟空に食べて欲しくて」
 彼に差し出した箱は、が作ったチョコレート入りのもの。
 悟空は首をかしげながら茶色い物体をつまんだ。
「コレなんだ?」
「えっとね、チョコレート。今日、私の世界ではバレンタインっていう日で、好き――えっと。お世話になった人にチョコをあげる日なんだ」
 好きな人にチョコをあげる日。
 それは妙に気恥ずかしくて、口にできなかった。
「甘いけど、食べてくれる?」
 俯きながら言う
 悟空は暫くチョコを眺めていたが、一気にぱくりと口に入れた。
 黙々と咀嚼し、の持つ箱からもうひとつチョコを取り、また口に入れる。
「んー、甘ったるいけど、うめえ。おめえが作ったんか?」
 うまい、と言われて顔を上る。
 は嬉しくて、大きく首を縦に振った。
「うん。私が作ったんだよ。悟空にあげられればなって……」
「そっか。うん、うめえ。――そだ。、おめえ今どこにいんだ?」
 どこに――と言われても。
 考え付く場所はひとつしかない。
「家だと思う……。私、今悟空しか見えてないんだけど……」
「オラ、修行とドラゴンボール探ししてて、今ちょっと休憩してたんだ」
「修行の邪魔しちゃった?」
 いいや、と彼は首を横に振る。
 それからもうひとつ、チョコを口に放り込んだ。
 残りはあとひとつ。
「オラ、おめえと会いたかったから、別に構わねえよ」
 うまいーと笑顔をに向ける悟空。
 で、彼に言われた言葉が嬉しくて飛び跳ねたい気分だった。
「あ、。おめえコレ食わねえのけ?」
 指し示されたのは、残りひとつになったチョコレート。
「別にいいよ。悟空のために作ったんだから」
 にこにこ笑いながら言う
 しかし悟空は少しだけ考える素振りを見せ、チョコを半分かじる。
「ほれ、半分」
「……う、うん」
 全部食べていいのに、と思いながら半分になったそれをもかじる。
 ――間接キス。
 それに思い当たったのは、すっかり平らげてしまってからだった。
 頬が赤くなったを、悟空は覗き込む。
「どうかしたんか? 病気か?」
「そんな急に病気になったりしないもん。……なんでもないよ」
「そか? オラ、おめえの側にいてやれねえからちょっと心配だぞ」
 更に赤くなるような事を言う彼。
 悪気も他意もないのだろうが、発言はを喜ばせて――ついでに赤くするようなものばかりだ。
 悟空はにかっと笑うと、大きく息を吐く。
「おめえ、直ぐにけえっちまうんだろ?」
「残念ながら――そう、みたい」
 既に、悟空の姿は霞み始めている。
 チョコレートを渡す。
 それだけが空間が開いた意味みたいに。
「おめえがいるトコ、薄くなってんぞ。もう、けえるんだな」
「――うん」
 悟空の方から見れば、が薄くなっているように見えるらしい。
 側からは逆だけれど。
「……なあ」
「なあに、悟空」
 彼は――思い切り笑顔で、言う。
「またな!」

 うん、また――また会おうね――


 気付いた時、机の上に突っ伏していたは、大きく伸びをした。
「……寝ちゃってたのかな?」
 いつの間に、と考えながら机の上の箱を見る。
 チョコレートの箱――だが、その中身はない。
「――え、なんで?」
 記憶がごそっと抜け落ちている。
 悟空にあげたいと思って。
 あげられたら、忘れても良いとまで思って。
 中身がないという事は、あげられたのだろうか。
 その事を自分が忘れてしまったのだろうか。
 は思考を巡らせ――暫くしてから、考えるのをやめた。
 チョコレートが消えているのは確かで。だったら。
「あげられたんだよね。私、悟空に会えたんだよね」
 だってこんなに胸が温かいから。
 ふっと微笑み、すっかり空になっているチョコレート入れの箱を丁寧に閉じる。
 直ぐに捨ててしまうのも何だか勿体ない気がして。
「明日まで置いておこ」
 ベッドの枕の上の方に箱を置いた。

 忘れてしまっていた事は、と悟空が結婚して暫くするまで――思い出す事ができなかった。



バレンタインの話なのに微妙にビターな感じでしょうか…。季節ネタって難しいです。

2005・2・14

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