「私……、」 「おう、オラは孫悟空だ!」 あなたに出会って始まって、たくさんの事柄を経験した。 たくさん笑って泣いて、時には苦しくて、でも幸せで。 同級生に虐められて泣いていた子供は、大人になった。 誰かを大切に思い、心から愛せる大人に。 泣き虫で逃げたがりで、弱い自分は未だ心の中にいるけれど、それだって自分の一部。 弱い自分に負けないのは、あなたが私を繋いでいてくれるから。 ――子供の頃からずっとずっと、私はあなたに恋している。 その手の先に 後編 天下一武道会。 趣は変容すれど、その熱気は変わっていない。 今日の日のためにあちこちからやって来た観戦者のざわめきが時折、通路を歩くの耳に入る。 10年前には選手として歩いた通路を、今日は観客として歩いているのは少し不思議な感じがした。 「いやあ、それにしてもミスター・サタンと知り合いで助かったよな」 先頭を歩いているクリリンが言い、誰ともなく同意する。 時間にある程度の余裕を持って出てきたはずだったのだが、当たり前の如く会場席は埋まってしまっていた。 いい席も、そこそこの席も全部。 仕方なく、武道会のスポンサーであるミスター・サタンに頼んで、席を用意してもらった。 そこへ移動する途中なのだが、どうしてか選手控え室らしき場所の真横を通っている。 気になって壁の方ばかりを見ていると、がくすりと笑った。 「お母さん、お父さん気にしてる?」 「え?」 目を瞬く。が首を傾げる。 「お義父さんたちなら心配しなくても平気ですよ」 「え、うん、気にしてはいるけど、そういうことじゃなくてね。この道ってさ……」 「げ!」 驚いたような誰かの声が上がり、皆の脚の動きがぴたりと止まる。 何事だと先を見やると、が予想していた通り、 「やっぱり……武舞台の場外側に出る勝手口だ」 視界の先は会場の中――それも、選手たちが戦う武舞台の真横だった。 客席と舞台を遮る高い壁の近くに、日除け傘とベンチが並べられている。 もちろん、あそこがミスター・サタンが用意してくれた席だ。 なるほど特等席である。 特別すぎて、一般の観客たちの目線があちこちから飛んでくるだろう。 「……オレはあそこで座って観戦するなら、舞空術で浮いて、上空から見る」 ピッコロがそんなことを言う。 流石に誰もが気後れして、足を踏み出せないでいると、後ろの方から声がかかった。 「!」 「ビーデル。もしかして……」 急いで来てくれたらしいビーデルは、ふぅっと大きく息を吐くと、挨拶もそこそこに観戦場所の変更を伝えてきた。 「ごめんなさい。パパったら……もっと落ちついて見られる場所があるから、皆さんそちらへ。案内します」 「良かった。ありがとうビーデルさん」 悟飯が丁寧に礼を言うと、彼女は首を振った。 「大事なを見世物にするなんて、冗談じゃないもの。さ、行きましょう」 ビーデルはの手を引くと、ずんずん先に進んでいく。 仲睦まじげな2人の背中を見送る悟飯の肩が、少しだけ下がっているような気がして、は口元を隠して小さく笑った。 学生時代、彼らはお互いの関係で随分と悩んでいたようだったが、今、その名残は全くない。 が気づいた時には、ビーデルはの保護者のようになっていた。 その態度に悟飯が翻弄される、という図式が、いつの間にか出来上がっていて。 詳しい理由は知らないが、悟飯はビーデルに、何度か頭の鉢が割られそうな位怒られたことがあるほどだ。 「ちょっと母さん、その微妙な顔止めてくださいよ」 いつの間にか、悟飯がこちらをジト目で見やっている。 は手を振り、 「ごめん。なんか楽しくて」 謝っているのか楽しんでいるのか分からない発言をしながら、悟飯の背中を押して、たちの後を追いかけた。 ビーデルが用意してくれたのは、中二階ほどにある、本来ならば関係者や特別な賓客のために用いられる部屋だった。 大きな楕円の窓の向こうに武舞台が見える。 かなりのロケーションだ。勿論、先ほどの武舞台横より臨場感はないだろうけれど。 はブルマの横に腰をおろし、顔を出して舞台を眺めて見た。 まだ悟空たちの姿はない。 ビーデルから振舞われた飲料を、それぞれが一杯ほど飲み干した辺りで、アナウンサーが舞台上に出てきた。 「あ、またあの人が司会なんだ」 がぽつりと呟く。 ずっと以前から、少なくともは、彼以外が天下一武道会の司会をしているのを見たことがないが、きっと契約しているのだろう。 たまにテレビのスポーツ実況などで声が流れてくると、つい耳を傾けてしまったりする。 ちなみに名前は知らない。 アナウンサーはマイクを高々と掲げてから、すっと手元に引き戻し、説明を始めた。 今大会の参加者は114名。 その中の12名が本戦に出場する。 賞金のスポンサーはミスター・サタン、などなど。 「今回、サタンさんは胃が痛いでしょうね」 ぽつりと呟いたのは、地球の神様デンデ。 こんなところに下りてきていいのかという疑問はともかく、は彼に意図を訊ねた。 「だって普段はブウさんが勝ち残って、それでサタンさんに負けているわけですよね」 「うん、意図的にブウが敗戦しないと無理でしょ」 「今日はそれじゃ通じないんじゃないですか? 悟空さんたちが出てますし……」 ――確かに。 しかし悟空の目的は賞金ではないし、わざわざサタンの有名性を己らが奪っても、正直なところ百害あって一利なしだ。 「悟空とかが勝ち残ったら、わざと負けるんじゃないかな。サイヤ人的にはどうか分からないけど……勝っちゃうと色々不味いし?」 「そう……ですね、ええ」 そんな話をしていると、アナウンサーがざっと選手たちの名が読み上げた。 当たり前のように悟空たちの名も呼ばれる。 少しの間が空いた後、アナウンサーは第一試合の選手2人を呼ぶ。 「いきなりパンちゃんかあ」 出てきた小さな女の子を眺めながら、クリリンが窓に軽く身を寄せる。 パンの横に並んで出てきた大男は、猛血虎というらしい。 前回の準決勝進出者で、ミスター・ブウ――つまり魔人ブウ――に敗戦した人だそうだ。 身長2メートル以上の大男の脇にいると、パンなど小さなおもちゃに見えるだろう。 観客もパンを見て、可愛いとか、虐められないようにねとかいう発言を投げている。 対戦者は、ひどく悔しそうというか、バカにされたような表情を浮かべているが、それも仕方がないことだろう。相手が小さすぎる。 対戦が始まれば、二重の意味で悔しい顔になるに違いないが。 「パンー! 程ほどにしとけよー!」 悟飯が声をかけ、そしてブルマの娘のブラが、 「ころしちゃだめよー」 恐ろしい言葉を続ける、パンはテレながら手を上げて応えた。 武舞台の上に立ち、パンはぺこりとお辞儀をする。 「それでは、始めてください!」 アナウンサーの合図と共に、彼女は構えを取る。 猛は完全にパンを見くびっていて、警戒することすらしないでいた。 その頬に鋭い平手が入る。 割と軽い音だったにも関わらず、猛はあまりの衝撃にか両手で頬を押さえてよろけた。 隙を見逃さず、今度は背中側から蹴りを見舞う。 猛の巨体が宙を舞い、場外の壁に激突した。 受身どころの話ではなく、顔面から突っ込んだその人を見て、はわずかに顔を歪める。 ――痛そう! アナウンサーが息のあることを確認し(さすがに手馴れてるなあ)パンの勝利宣言をした。 ぺこりと礼儀正しくお辞儀をし、控え室の方へ引っ込んでいくパンが見えなくなってから、は複雑な表情を浮かべているに気づく。 「どしたの?」 「……あの子、あのまま強くなったらどうしましょう」 「あー……」 女の子だしね、と同意するの横から、がひょいと顔を出す。 「大丈夫だよ、お義姉ちゃん。大きくなるにつれて、慣らし方覚えるもの」 私が実証済みだと微笑むを見、は納得したようだ。 「さて次の試合です!」 アナウンサーの、若干興奮した声を耳にし、はまた武舞台に向き直る。 「孫悟空選手対ウーブ選手の組み合わせです」 「悟空だ」 歩いて出てくる悟空に、気づくかなーと思いながら、は軽く手を振ってみる。 声も上げていないのに彼の視線がこちらを向いて、同じように手を振り返してきた。 彼が凄く嬉しそうなのは、天下一武道会に出ているからなのか、それともが手を振ったからなのか分からない。 が、隣にいるブルマはどう受け取ったのか丸分かりで、 「あんた達、こんなトコでもお暑いわね」 冷やかしてきた。 「そ、そういうつもりじゃ」 「いーのいーの。あんた達はそのままで」 「もう……」 アナウンサーは悟空の戦歴を知っているためか、個人的にかなり推しているような発言だった。 当たり前のように、準決勝まで進むという意味合いを含んで紹介している。 対戦相手のウーブは、南の島から来た10歳の少年らしい。 大家族の面倒を見るためにか、賞金目当てで来たそうだが――相手が悟空では。 「あの子にはちょっと可哀想、かな?」 『そうでもなかろう』 の耳に何故か、父の――界王の含み笑いが混じった声が聞こえてきた。 「……と、父さん?」 名を呼んでみるが、返答はない。 むしろの奇妙な行動に、悟飯が驚いて訊ねる。 「か、母さん、いきなりどうしたんですか?」 「や、え、悟飯は何も聞こえなかった……?」 「いえ、僕には」 ということは、意図せず界王がうっかり零した音なのだろう。 は首を傾げながらも、もしかしたらこの試合に何かがあるのではないかと思い始めた。 少年はがちがちに緊張していて、戦うどころではないように見えるが。 「さあ、それでは試合を始めて下さい!」 アナウンサーの声にも、ウーブは固まっていてろくに動けないでいる。 悟空は宥めて緊張を緩めようとしているように見えたが、それでも少年は全身が凝り固まったままだ。 すると何を思ったのか、悟空は意地の悪い顔を作って、少年と会話をし始めた。 時折、困ったように目線があちこち走っているところを見ると、言葉を選ぶか考えるかしているようで。 「孫くん、何を喋ってるのかしら」 「さあ……なんだろ」 周囲のざわめきが大きいため、2人の会話を耳にすることは出来ない。 「……どうやら悟空は、あの子供に悪口を言っているようだな」 人一倍聴覚の良いピッコロが教えてくれるが、は更に分からなくなる。 ――悟空が悪口? 「なんで?」 「やる気を出させるためだろう、恐らくな。しかしアイツ……悪口が出てこなくて時々つっかえているが、アレで怒らせるつもりがあるのか」 どんな悪口なんだろう。 気になりながら試合を見ていると、何が効いたのか知らないが、ウーブが怒りの形相で悟空に突撃してきた。 素早い動きで蹴りを放ち、悟空はそれを左手で受け止める。 痺れる程の力だったらしく、悟空の動きが一瞬止まった。 その間に右手が繰り出されるも、これは避ける。 ウーブから距離を取り、武舞台の端にまで一度引いた悟空は、反動をつけて一気に距離を詰めた。 衝撃と共にウーブは攻撃を受け止める。 一般人ではおよそ視覚できないような、超速度で攻撃を繰り出し続けている2人に、観客もアナウンサーも言葉がない。 それを見ている仲間たちもまた、信じられない面持ちで戦いを見つめていた。 勿論、も例に漏れず唖然としている。 「な……なんだ、あの子……」 悟飯が呟く。 無理もない。本気でないとはいえ、悟空とまともにぶつかり合える少年――しかも地球人らしい――がいるなど、誰も思っていなかったのだから。 試合が始まる前に、が界王から漏れ聞いた『そうでもない』という言葉は正しかった。 動きが荒削りではあるものの、少なくとも今の悟空には、十分に対抗できているように見えるからだ。 ウーブが吼え、一種の気合砲で悟空が吹っ飛ばされる。 衝撃で悟空の体が宙に浮く。彼はそのまま、当たり前のように舞空術で宙に留まった。 人間が浮くなどと想像もしない観客たちは、一様に驚愕の声を上げた。 ウーブもまた、驚いて目を丸くしている。 空中で静かに佇んでいる悟空を見上げ、どうしていいやら分からないといった風だ。 悟空はゆっくりと武舞台に戻り、驚きで半ば固まっているウーブの前に立った。 武舞台のど真ん中で、悟空はまたウーブに何やら語りかけている。 を含め、仲間たちは悟空の行動がさっぱり理解できない。 ピッコロならばまた聞こえているだろうと思い、が彼に振り返ろうとしたのと同じくして、悟空がふわりと浮き上がり、こちらに近づいてきた。 混乱したまま、は窓の外に浮いている夫に訊ねる。 「悟空、ねえ、さっきから一体」 「あのさあ、オラあいつを修行してやりに、あいつんち行って一緒に暮らしてくる」 あまりに突然過ぎる言葉。 のみならず、他の全員も呆気に取られた。 こちらの動揺やら驚きやらには全く気づかず、 「何年かかるかわかんねえが、たまには帰ってくっから宜しく頼むな!」 悟空は軽く手を上げて立ち去ろうとする。 「あ……ごく……う」 一気に色々なことが起こって、は正直、状況についていけていない。 自分でもよく分からないままに立ち上がり、去り行こうとする夫の背中に呼びかける――否、『待って』と呼びかけようとして、声にならなかった。 家に帰ってこない? 何年も? もしかしたらずっと? 悟空は戦いに一途だ。 彼がウーブを修行するというのなら、妥協して途中で帰ってきたりはしないだろう。 ――悟空がいなくなってしまう。 彼の存在が、真実、なくなってしまうわけではない。 今までのように、魂をどこかへやってしまうわけでは、ない。 そうと分かっていても、は彼が傍にないことを思うだけで、心臓が鷲掴みにされているみたいに苦しくなる。 声が、出なくなる。 伸ばした手の先に悟空がいないなんて、もう充分過ぎるほど経験した。 考えたくもないのに。 彼は行ってしまう。 「悟空……」 か細い音が、の口唇から零れる。 ピッコロでさえ聞こえないような小さな声に――けれど悟空は振り向いた。 向き直る彼と視線を交わしながら、は訊ねる。 「悟空……いっちゃうの?」 なんとか声が出た。震えている気がしなくもない。 いい大人なのに、悟空が傍にいなくなると思っただけでこれか。 笑って送り出すべきなのに。 今にも泣き出しそうなを見て、悟空は首を傾げる。 「なにしてんだ?」 「なに、って……」 「ほら」 どうして動かないんだと言わんばかりの悟空から、差し出された手。 は目を瞬き、彼の手を、そして瞳を見た。 悟空は手を差し出したまま、優しく微笑んでいる。 彼女にだけ向ける、温かく、同時に激しい感情を秘めた瞳の彩を湛えて。 「ずっと繋いでようって、言っただろ」 ――オラとおめえの全部を。 10年前の、彼の言葉が呼び起こされる。 離れない。 繋いで、離さない。 世界が砕けても、互いがなくなってしまっても。 は温かくなる気持ちを胸に抱きながら、ゆっくりと悟空の手に、己のそれを重ねた。 窓を越えて悟空の胸に引き寄せられながら、どちらともなく指を絡める。 悟空はの絹のような黒髪を後ろに流し、額をこつんと当てた。 差し伸べられる彼の手の温もりはいつだって、泣きそうなほど温かくて、時折不安になる。 ――ねえ悟空。 私は、あなたの役に立てたことはあったのかな。 あなたに恩返しできたこと、あったのかな。 貰うのと同じ位の幸せを、ちゃんと返せてるかな。 たくさんの感情を胸にしながら、はただ、悟空の手を感じて瞳を閉じる。 前でも後ろでもなく、あなたの横にいたい。 ずっと、いつまでも。 「行こうぜ、一緒に」 「――うん、一緒に」 世界の彩は、あなたを知って鮮やかになった。 幼いあの日に触れた手が、それまでの自分を塗り替えてくれた。 あなたの手が、私を私にしてくれた。 孫悟空。 私は今でも、あなたに恋し続けています。 2010・2・14 了。 |