安堵の時 3



 の姿を見るなり、界王は奇妙な声を上げて義理の娘の手を握り、上下に大きく振った。
「ちょっ、父さん?」
「よく生きておった! よく戻ってきた! よく……うぅぅぅ……!!」
 界王の青い顔が歓喜の色に染まっている。
 ブウ戦のことで、余程、気を揉んでいたのだろう。
 涙ながらに何度も「よかった」と言われると、の方も涙腺が緩んでしまって。
「おと、お父さん泣かないでよ。私まで泣けちゃう」
「泣くに決まっとるじゃろ! あんなボロボロになりおってからに……」
 界王は鼻水をすすると、大きく息を吐き出した。
 と悟空に腰掛けるよう勧めると、お茶を淹れるために台所へと向かう。
 悟空は、無言で作業をしている界王の背中を眺めながら、にこそりと呟いた。
「界王様んこと、えれぇ心配させちまったみてえだな」
「うん……毎度のことながら、ね」
 は小さくため息をついた。
 いつも心配して、見守ってくれている。
 ありがたいと思うし、そういう義父が大好きだ。
 自分は、彼の娘として、与えられる愛情分を報いているとは決して思えない。
 せめて大好きな気持ちだけは、ちゃんと伝わっていて欲しいと、心から思う。
「ほれ、茶じゃ」
「ありがとう」
「サンキュー!」
 軽く椅子を軋ませながら、界王は腰を下ろした。
 淹れたての茶を口にしようとして、あまりの熱さにか湯のみを置く。
「しかしお前、珍しいもんを着ておるのぉ」
「無理やり着せられたと申しますか……恥ずかしいんだけどね、これ」
 スカートの裾をつまんで、何気なくひらひらさせる。
 濃い色と薄い色のグラデーションが見事なそれは、絹のごとき肌触り。
 ドレスの胸元は大きく開いているし、ついでに髪もアップにしているから、露出度は高く見えるかも知れない。
 青い宝石のネックレスを外したら、視覚的にはもっと寒々しくなるだろう。
 普段が活動的な格好なので、こういう長い裾のスカートなどだと、いつ裾を踏むかと気になってしまう。
 実際の丈はそこまで長くないのだけれども。
「オラ、おめえのそーいうカッコもかなり好きだけどな」
 含みのない褒め言葉。
 は頬が熱くなるのを感じ、彼の『言葉』には一生慣れないかも知れない自分に苦笑いを浮かべた。
 界王は夫婦の姿を眺め、うんうんと頷いた後に口を引き結んだ。
 雰囲気が変わったのを察して、は首を傾げる。
「父さん?」
……すまなんだのう」
「え? なんで父さんが謝るの」
 色々と謝る必要があるのはこちらなのに。
「わしが居らなんだら、こんな苦労はせんかったかも知れんじゃろ」
 はお茶を冷ましながら、ちらりと界王を見やった。
 苦労、の中に含まれる言葉が、普通の人生ではありえない『怪我』だの『戦い』だのだと察する。
「……何言ってるのよ」
 彼が己を引き取ってくれなければ、今こうしてお茶を飲んでいなかっただろう。
 赤子の自分は誰かの助けを借りねば、命を持ち続けられなかった。
 界王という立場上、手元で育てるのが困難だとして異世界へ送り出し、そこで育ててくれた。
 こちらに戻ってきてからも、ずっとずっと気にしてくれていた。
 たくさんの迷惑と心配をかけてもなお、彼は父親であり続けてくれた。
 義父なんかじゃない。
 れっきとした自分の『父』だ。
 考えているうちに泣けてきて、は軽く目を擦ると無理やり父に微笑んだ。
「父さんの子供でよかった。私、幸せだよ」
「うぅ…………わしもお前が娘で幸せじゃ!」
 触覚を下げて肩を震わせる界王。
 そんな2人を見、今まで押し黙っていた悟空が口を開いた。
「界王様がいなかったら、とオラは会えなかったわけだしなぁ。……界王様、ありがとな。を助けてくれて」
「悟空……うぉぉん……!! わし、わし嬉しい……!」
 また本格的に泣き出してしまった界王を、バナナを手にしたバブルスが不思議そうな顔で見つめていた。


 界王星で長居をしてしまい、ブルマの家に戻った時にはかなり遅い時間になっていた。
 宴会は既に終了しており、ちびっ子達は入浴を済ませて部屋でごろごろしている。
 悟飯とは、サタンの別荘にお呼ばれして出かけたそうだ。
 きっと今日は戻ってこないだろう。サタンも、と積もる話があるだろうし。
 リビングへ戻ると、先に入浴を終えていた悟空とブルマがくつろいでいた。
 ブルマは冷えたお茶をに手渡す。
 火照った体に、冷たいそれは急速に染み入った。
「あんた、なんでパジャマじゃないの?」
「だってブルマの家だし。さすがにね」
 いくら自宅同然とはいえ、その辺りの礼儀は欠いてはならない、と思う。
 悟空もも、シャツにズボンのラフな格好ではあるが。
「ねえ。子供たちはうちで預かるから、先に自宅に戻ったら?」
「え、なんで?」
 ブルマの唐突な進言に、はきょとんとして聞き返す。彼女はにぃやりと笑った。
「孫くんと2人きりの家って、久しぶりなんじゃないの?」
「……まあ、それは確かに」
 何気なく返答すると、彼女はひどくつまらなさそうな表情でため息をつく。
 反応が面白くないらしい。
 ちらりと悟空を見やれば、彼はにこりと微笑み返してくる。
 子供たちがいない、かつ、脅威にも晒されていない、悟空と2人だけの自由な時間というのは、随分長いこと経験していないように思う。
 が逡巡していると、ふいに悟空が立ち上がり、
「そんじゃあブルマ、がきんちょ達頼むな」
 言いながらの手を掴んだ。
 ――あ、もうこれは帰宅する気だ、完全に。
「……じゃあ、お言葉に甘えて先に戻ろっか」
 荷物を取って身に着けると、はブルマにぺこりとお辞儀をする。
「ええ、子供たちは任せて。お休み2人とも」
 お休みと返し、と悟空はバルコニーに出ると浮き上がった。



「ねえ悟空、ちょっと……どころじゃないかも知れないけど、寄り道していいかな」
「ああいいぞ。どこさ行くんだ?」
「秘密!」
 夫を引率するようにして先に飛ぶ
 地図を完璧に頭に叩き込んでいるわけではないが、位置はなんとなく分かっている。
 いくつも島を跳び越し、やっとで目的地を探し当てた。
 気をコントロールしながら、柔らかい所作でその場所の上に足を着く。
 悟空も同じようにその場に下り立つ。
 視線があちこちに向く彼を見ながら、
「ここ分かる?」
 は訊ねた。
「当たりめえだ。おめえが最初に出てきたトコで……オラがプロポーズしたトコだもんな」
 当然だとばかりに言う悟空に、笑顔が止まらなくなる。
 普段は記念日だの行事だのに全く無頓着な夫だが、自分との大事なことは必ず覚えていてくれる、そのことがとても嬉しい。
「なんでここに?」
「うーん……なんでだろうね。ただ、悟空と2人だって思ったら、来たくなったの」
 この浜は幼い頃と変わらず見事な白砂で、海風にあおられ靴先に絡まっては流れていく。
 晶光を浴びて、白いそれは淡い光を放ってさえいるように見えた。
「最初にここに来たときは、こんな風になるなんて、ちっとも思ってなかった」
 大事な人を喪って泣いていた自分に、声をかけてくれた少年。
 弱虫で、泣き虫で、我慢しか知らなかった幼子に、強さと暖かさを教えてくれた。
 道筋を与えてくれた、初恋のひと。
 やんちゃで、大らか過ぎるほどで、明るくて、それから驚くほどものを知らなくて。
「結婚の意味も知らなかったのにね?」
「そりゃあ……もう言うなって。だって勘違ぇしてオラから逃げ出しちまったろ」
「だって、ねえ」
「オラ、あれかなりショックだったんだぞ」
 苦笑して頭の後ろを掻く悟空は、昔の己の行動をどう思っているのだろうか。
 あれから随分と時が過ぎた。 
 初恋の人物と結婚して、紆余曲折ありながらも、こうやって一緒にいられるなんて。
 幸せで満たされすぎて、少しだけ怖い。
 幸福と同時に、喪う恐ろしさも知ってしまっているから。
「なあ……
「うん」
「オラと結婚して、後悔しなかったか」
 は腕を後ろ手にして組んだまま、足先で砂を少しだけ掻いた。
 浅く歪んだ線が残る。
 海の向こう側を見たまま、は訊ねた。
「なんでそんなこと聞くの?」
 含みのない、ただ単純な疑問。
 少し間が空く。波の音だけが、2人の間に横たわっている。
「……オラがサイヤ人だからっつーのかな。いっぺえ怖ぇ目に遭わしちまってるしさ」
「まさか! 後悔なんてしたことないよ」
 勿論、戦いや日常の中においてはたくさんの後悔がある。
 あの時ああしていれば、とか。
 けれども、悟空と結婚したことを後悔なんて、一度たりともしたことがない。
 相手を思えば、自分ではない誰かとつがいになった方が、彼は幸せだったかも知れない――そう思うことはあれど。
 自分ベースでものを見た時、悟空との結婚に文句なんぞあろうはずもない。
 怖かろうが痛かろうが、彼と一緒にいられない辛さを考えれば、たいしたものではないから。
「悟空こそ。私みたいな変なのと結婚して、後悔してる?」
「それこそまさかだろ。それに、は変なんかじゃねえぞ」
 言って、悟空は口を閉ざす。
 は無言のまま、ぷかりと浮いている大きな月を眺めた。
 吸い込まれそうなほど美しいそれ。
 その下で泣いていた幼い自分は、悟空という存在に包まれて消えてしまったのだろうか。
 それとも未だ心のどこかに在って、彼を傍らに感じていないと喚き出すのだろうか。
 ――どっちも、なのかな。
 くすりと笑うの手に、悟空の手が絡まる。
 隣に立つ彼を見上げると、彼のまっすぐな瞳とぶつかり合った。
 黒曜石のような瞳から、目が逸らせない。
「なあ
 筋張った彼の指が、愛撫するかのようにの手の甲を、指の間をなぞり動く。
 触れている部分から溶けてしまいそう。
 手を握るのとは逆の手が伸びてきて、の頬に触れる。
 ゆっくりと近付く彼。
 自然に目を閉じれば、与えられる軽い口付け。
 口唇が離れると同時に、無骨な彼の指の腹でほんの少しだけ頬をなぞられ、目蓋を開いた。
「……繋いでような。ずっと、さ」
「手を?」
「いや」
 手だけではなく、体だけでも、心だけでもなく。
「オラとおめえの全部をだ」
 先ほどよりもずっと深いキスを求められ、はもう一度、瞳を閉じる。
 体の力を抜き、悟空の腕に身を預けた。


 繋いで、生きよう。
 ずっと。
 世界が砕けても、互いがなくなってしまっても、ずっと一緒に。




2010・2・1
あと2話で終了です。もう少しだけお付き合いくだされば幸いです。