失ってから



「先生、お加減はどうですだ?」
 パオズ山の東村に買い物にきていたは、患者でもある店の店主に問われて苦笑した。
 財布から紙幣を出しながら、
「体調には問題ありませんよ」
 答える。
 お金を払うと、店主の横にいた彼の妻が、リンゴをオマケしてくれた。
 食べ物がわんさと入った紙袋を胸に抱える。
 店主はの笑顔に、困ったように後頭部を掻いた。
「そうだか。だども、診療所はまだ開けねえですかね?」
「ごめんなさい。まだもう少し……皆さんにご迷惑をお掛けして、申し訳ないと思っているんですが」
「いんや、おらたちは先生が元気になって下さりゃ、それでええんですよ。旦那さんがいなくなって気落ちして――」
「アンタッ!」
 べちん、と後ろから店主の妻が頭をひっぱたく。
 失言だったとヘコヘコ謝る2人に、は手を振った。
「大丈夫ですよ。診療所は――なるべく早く開けられるようにしますから。――リンゴのオマケ、ありがとうございました」
 また、と言って店を後にする。
 村を出るまで幾人にも声をかけられた。
 その度に笑みかけ、心配ないと答える。
 悟空がいなくなって一週間。
 平和の戻った地球は、の感情とは関係なく、くるくる回る。


 山道の上を飛び、自宅に戻った。
「ただいま」
 玄関を開けてリビングに荷物を下ろし、冷蔵庫と冷凍庫に、それぞれ買ってきたものを選り分ける。
 そうしているうちに、悟飯が出てきた。
 ずっと超化していた状態で過ごしていたから、こうして黒髪に戻ると、何だか不思議な感じがする。
「お母さん、お帰りなさい」
「ただいま。勉強してたの?」
「うん。今ちょっとお茶でも淹れようと思って」
「そっか。リンゴ食べる? さっき買い物してオマケしてもらったんだ」
 悟飯が頷く。
 茶器を出してもらう横で、はお湯を沸かし、リンゴをむき始める。
 そのうちにお湯が沸いて、悟飯がティーポットの中に湯を注ぎ、カップにお茶を淹れる。
 は、丁寧に切り分けたリンゴを皿に盛り付け、テーブルに乗せた。
 小さなフォークでもって、刺して食べる。
 甘い味と香。
 ふうわりと広がる味に、ほっとする。
 紅茶は砂糖なしだが、仄かな香りが、身体をゆるりと浸してくれた。
「お母さん。あの、身体は大丈夫?」
「うん、特に問題ないよ、バッチリ。……どうかした?」
 怪訝そうに見つめると、悟飯は真っ直ぐにを見つめ――けれど首を横に振った。
「大丈夫なら、いいけど……」
 は自分で確認する。
 ――心配させるような事は、なにもないはずだ、と。


 夕食を食べ終え、入浴を済ませた。
 髪を乾かしている間に悟飯は「おやすみなさい」をして自室に戻り、どうやらすぐに眠った様子。
 はリビングを見回し、特に目立ってやる事がないのを確認してから、寝室の戸をくぐる。
 背後でぱたんとドアが閉まったのを確認し、ベッド脇に座り込んだ。
 ぺたんと子供のように座り、背中をベッドの側面に預ける。
 は、長い息を吐いた。
 息を吐き出すように、胸の中にあるシコリも、全部出てしまえばいいと思うのに。
 日を過ごすほど、逆にそれは蓄積していく。
 泣かず、叫ばず、日々を過ごす。
 悟空がいなくなってしまったその時から、は一切涙を零していなかった。
 泣き言も言わず、まして文句など全くなく――傍目には、今までと同じように、生活できていた。
 現在、仕事はお休みさせてもらっている。
 先の闘いでの傷の治療、というのがもっぱらの理由(事情を知らない人には、個人的理由ということで誤魔化している)だったが、デンデに治してもらったので、傷など一筋たりとも残っちゃいない。
 自粛している理由は、異能力の限界突破によるものだ。
 力が上手く練れない。
 解放できない。
 空間転移はおそらく可能なのだろうけれど、こと外部に押し出すような事が、今は身体に多大な負担をかけてしまって。
 治療ができないのであれば、患者を診る事ができない。
 仕事など、できるはずもなかった。
「……はぁ」
 子供のように丸くなり、重い息を吐く。
 まるで本当に子供の――小学生の頃に戻ったかのよう。
 一日が終わるとやってくる、強烈な虚脱感。
 泣いてしまえば少しは楽になりそうなものなのに、決して泣かない。
 ――泣けない。
 小さい頃、まだ悟空と出会う前。
 虐められていたは、人形のようにそれを享受していた。
 あの時に似ている。
 ただし、今は外部からの責めは全くない。
 自分で自分を痛めつけているような気がする。
 今のには、感情を自然に吐き出すという行為が難しい。
 あるのはただ、強く在れという、意地にも似た感情で。
 それが更に自分を苦しめるものであったとて、悟飯に気取られてはいけなかった。
 それこその、女ではなく母親としての意地だった。
 悟飯は充分に――今だって苦しんでいる。
 その上に、自分の苦しみを覆い被せる気は、全くない。
「……大丈夫、私は、だいじょぶ……」
 言い聞かせる。
 明日も笑って過ごせると。
 はここ最近、ベッドで眠ってはいなかった。
 悟空と一緒に眠っていたその場所に横になれば、彼を感じてしまう。
 もうこの世にいないその人を求めて、感情が逆立つ。
 だから――もう一週間ほど、はずっと、床の上で眠っていた。
 ブランケットにくるまり、ベッドの側面に背を預け――または本当に床に転がって――眠る。
 思い出すならばベッドを捨ててしまえ、という考えもあるが、それはできなかった。
 悟空のものを、何一つ捨てたくない。
 しがみ付いていると言えばそれまでだが、この家から彼の影を全て消してしまったら、自身が消えてしまうような気がして、できなかった。
 ベッドから、のろのろとした動きでブランケットを引っ張り、それで身体をくるむ。
 瞳を閉じると、ぐずぐずと体の奥底から自分を蝕むように、ひどく醜い感情が昇ってくる。
 それを振り切るように、はギュッと瞳を閉じる。
 ――独りで眠る寝室の闇は、恐ろしく濃い。



 翌朝、悟飯はいつもと同じように起き、いつもと同じように生活する母を見て、気取られぬように小さな息を吐く。
 朝食を終え、本を読んで――傍目にはゆっくりしているに、声をかけた。
「お母さん、僕ちょっとピッコロさんのところに行ってくる」
「帰りは遅い?」
「あ、ええと……夕食までには帰ってくるよ」
「そう。気をつけてね」
 にこりと笑みかけられ、悟飯も笑む。
 困ったような笑みになっていなければ、いいのだけれど。


「ピッコロさーん!」
 神殿の面に出ているピッコロの側に、悟飯は駆け寄る。
 ピッコロは、やって来た彼に口端を上げた。
「悟飯。元気そうだな」
「はいっ」
 まだ一週間ですけどね、とくすくす笑う悟飯。
 デンデも気配を感じて出てきた。
「悟飯さん!」
「デンデ、こんにちは!」
「こんにちは。どうしたんですか?」
 その途端、悟飯の表情が曇る。
 ピッコロとデンデは顔を見合わせ、とりあえず中に入るよう促す。
 神殿内のリビングともいえる場所で、ミスター・ポポがお茶を淹れる。
 俯いている悟飯に、ピッコロが声をかけた。
「一体どうしたんだ悟飯。なにかあったのか」
「……その、お母さんが変なんです」
さんがですか?」
 デンデの問いにこっくりと頷く。
「多分……泣くのを我慢してるんだと、そう思うんですけど……。不自然な笑顔を作ってるわけじゃないですし、傍目には全く今までと同じなんです。でも、なんだか違和感があって」
 ため息を転がし、肩を落とす悟飯にピッコロは唸る。
「……あの女は、そんなに弱くなかろう」
 デンデは俯く。
 悟飯も同じように俯いた。
 確かに弱くない。
 けれど、
「弱くないからこそ、大丈夫だって自分を追い詰めてる気がするんです。お父さんがいなくなったのに、泣き言も言わないし、むしろ今までより強くなってて……それが僕には心配で」
 無理をした強さなど、長くはもたない。
 ミスター・ポポがぽつりと言う。
、緊張を和らげる場所が必要。違うか?」
「僕じゃだめなんです。僕に負担をかけまいとして、多分……我慢してるんで」
「自分自身のためでもあるだろうな。崩れると、どこまでも落ちていくと、理解してるのだろう」
 静かなピッコロの言葉。
 誰も、何も言えなくなる。
 心配のあまり、ピッコロに相談しにきた悟飯だったが、結局解決策など――最初から分かっていて、けれどそれを口にはできない。
 言えない悟飯たちの代わりのように、ポポが静かに告げた。
「悟空しか、、救えない」

 必要な人が、ここにはいない。
 悟飯はぎゅっと拳を握る。
 ――お父さん。だめだよ……僕にはお母さんの心を護る事なんて、できない。
 弱みを見せる――その綻びすらない今は、悟飯には解決の糸口をつかめない。
 ほんの少しでも、自分の前で泣いてくれればいいのに。
 そうしたら、きっと慰められるのに。
 母も少しは楽になるのに。
 けれど、それを拒否している彼女の心を開けるのは、ここにいない人。
 死んでしまった父親だけで。
「……このままじゃ、お母さん、壊れちゃうよ」


 その言葉を聞き、の様子を見ていた人が、いた。




まだちょろりとセル編繋がり。の話でござんす。
2007・2・16