お兄ちゃん




 体がボロ切れになったかと思えるほどの虚脱感、そして同時に存在する痛み。
 周囲を理解する力は殆どなく、雨が跳ねる土の地面に体を横たえ、ただひっそりと息をする。

 ――このまま死ぬのだろうか。
 何一つ分からないままに。

 降り続ける雨の中、ゆっくりと目を閉じた。


 ……それは今から6ヶ月前のことである。



 子供の作り方事件から1ヶ月とちょっと。
 悟空とは今まで通りの平和な生活を営んでいた。
 は妻としての仕事をしながら、時折悟空と一緒に修行をしたりしつつも、もっぱら治療師としての仕事に精を出す。
 食費を浮かせるために、パオズ山からごっそり食材を持って来、がその巨大な食材に立ち向かうことも、もはや日常茶飯事だ。

「はぁ……今日はちょっと疲れたかも……」
 小さなため息をこぼし、夕暮れ迫る山村を歩く。
 今日は朝に悟空と修行をし、その足で仕事に取りかかった。
 それだけなら大したことはないのだが、患者の人数が多かったために少々疲労気味。
 ……にしても、少し疲れすぎだ。
 働きすぎだろうか。
 そんなことを考えつつ村の雑貨屋へ足を運び、日用品を買った。
「早くしないと悟空がお腹すいたって騒ぎだすね……」
 荷物を手に持ち、村の外へ向かって歩いて行く。
 パオズ山にある自宅。
 村へ来るには普通、山道を通って来なくてはいけない。
 夕暮れ時に村を出て行くのは危険だ。
 まして歩きなら尚更。
 まあ、には筋斗雲があるから全く問題ない。
 今、練習中の舞空術ではちょっと心もとないが。
 村の外へ歩く道すがら、何人かの知り合いに声をかけられる。
ちゃん、今から帰りか?」
 仕事帰りらしい若い男がにこやかに言う。
 よく怪我をして治療所に顔を出しす男性だ。
「もう遅いから、ウチ泊まってけよ」
 バカ言わないでよと、はクスクス笑う。
 勿論、男性が冗談を言っているのだと分かっている。
「悟空が餓死しちゃうもん。帰るよ」
「ったく……いいよなぁ、旦那。しかも2人とも10代だし……」
「10代で結婚については私もビックリしてる。それじゃ、またね」
 軽く手を振って歩き出す。
 至極残念そうな男性も、パタパタと手を振った。

 村の中で筋斗雲を使うことをしないのは、みんなが驚くかも、という気持ちがあるからだ。
 村の入り口から、山道へと踏み出す。
 いざ、筋斗雲を――
「おや、
「タド先生」
 この村で内科の医師をしている老先生だ。一応婦人科も兼業にしているが。
 筋斗雲を呼ぶのを止めて、挨拶した。
「こんばんは」
「こんばんは。は今から帰りかね」
「はい。先生はどこかへ行かれたんですか?」
 タドは小さく笑うと、頷いた。
「いや、わしが面倒を見ているやつが、今日こっちへ来てくれたんでな、ちょっとばかり診療を代わってもらったんじゃよ。それで、わしは往診の方へまわらせてもらったんじゃが……おお、あいつじゃよ」
 示され、村の中を振り返って見る。

 ――は自分の目を疑った。
 近づいて来た男性も、の姿を目にしてぴたりと足を止め――それから走って側に来た。
「……!?」
「……お兄ちゃん……克也兄ちゃん!!?」
 男性は懐かしい笑みを浮かべた。


 と克也――香坂克也は、村の入り口付近にある畑の近くで話をしていた。
 タド先生は先に戻ってもらった。
 というか、積もる話もあるだろうということで、先に帰ってくれたというのが正しい。
「それにしても……まさかまた兄ちゃんに会えるとは思ってなかった」
 感激と驚きの混じった表情で言う
「俺も驚いてる」
 香坂克也はが元々いた世界の住人で、友達である香坂由依の兄であり、よくしてくれた兄貴分でもある。
「先生とはどういう……」
 克也は苦笑いした。
「実は、拾ってもらったんだ」
「ひ、拾って……って」
「俺さ、この山の近くで倒れてて……」

 克也の話を要約すると、6ヶ月ほど前、今は誰もいないの自宅に訪れた彼は、そこから突然こちらの世界へと飛ばされて来たらしい。

「私の家って……どうなったの?」
 は母親が亡くなってすぐにこちらの世界へ来てしまった。
 父はこちらの者だと理解しているし――前の家の事を考えることはあっても、余り深く考えられるような余裕はなかった。
 住んでいた家はどうなっているのか、急に気になりだした。
「ああ、今はまだ保存されてる。が行方不明になった状態だから」
「そっか……やっぱり私、行方不明扱いになってるんだね」
 そりゃそうだと思う。
 家からいきなり何も言わずにこちらへ来たのだから。
 というか、誰にも何も言えない状況だったし、第一、言えたとしてもどう言えと。
『私、これから別の世界に飛びます』
 なんて、バカ丸出しだ。
 克也は軽く手を振った。
「俺もどういう扱いされてるか、分からないけどな」
「そっか……由依、心配してるよね……」
 由依は、いじめられっこだった頃からの友達だった。
 いきなり消えて心配されただろう。
 その上兄までいなくなるなんて――。
 眉根を寄せるに、克也は地面を見つめた。
「……俺、の家に行けば、お前に会えるんじゃないかって思って。何度も何度も行ってた……家の中にまで入ったのはこっちへ来る直前だけだったけどさ」
「家の鍵は」
「ああ、今、管理者をしてる人に言って、開けてもらったんだ」
「そっか……」
「ご両親の仏壇で――いきなり体が、何ていうかバラバラになった気がして。気づいたら山の中で……死ぬかと思った」
 そこでタド先生に助けてもらい、山村ではなく少し離れた街の方で体を治し、医師の補助の仕事をして、今日、ここに来たんだと克也は告げた。
 は心底、謝った。
 彼はどうしてが謝るんだと言ってくれたが、彼女には自分が引き金になって、克也をこちら側へ呼んでしまった気がしたのだ。
 勿論、自身がそれを望んでいたわけではないから、何らかの事象で、克也はこっちへ来てしまったのだろう。
 誰でも来れるということではないと思う。
 そうでなければ、家を捜索した警察官などは全員こちらへ来ているはずだし……とて、己に転移能力があったからこそ来れた。
 そもそもはこちらの世界の出自らしいし。
 ――彼がここへ来てしまった理由として考えられるのは、が転移の際に開けた穴のようなものに飲み込まれた……ということぐらいだが、実際はどうなのか不明だ。
 しかし彼がここにいるし、これからのことを考える方がいいかも知れない。
「克兄ちゃん、帰りたくない?」
「……ここってさ、車が浮いてるんだよな。日本とは全然違う」
 すぅ、と息を吸い、それからまた克也は口を開いた。
「最初はさ、ものすごく悩んだ。でも――ここにはがいる。お前にまた会えた。嬉しく思いこそすれ、それを不幸とは思わない。由依も親も心配してるかもしれないけど……俺は帰りたいとは余り思わないんだ」
「どうして?」
 聞くだったが、返してあげることはきっと出来ない。
 そんな能力は自分にないからだ。
 こちらとあちらを繋いでいた、媒体である白砂は、界王――父――に言われて捨ててしまった。
 もう向こうへ行くことはできないはずで。
 唇を噛むに、克也は笑った。
「言ったろ? がいるからだよ。知り合いがいるって心強いからな。それに俺は割と前向きでさ、この世界も結構気に入ってるんだ」
 は少しだけホッとした。
 自身が悪いわけではないだろうが、許された気がしたのだ。

 気づけば、夕闇が刻一刻と迫っていた。
 慌てて立ち上がるを、克也は不思議そうに見やった。
「ごめん克兄! 私そろそろ帰んなきゃ」
「え、村の中じゃないのか? どこにあるんだ?」
 どこ、と問われ、指で示してみる。
「えっと、あの辺」
 山の方を示して言う。
 正確なところは分からないだろうけれど。
 は軽く笑った。
「ご、ごめん。タド先生なら知ってるから、今度遊びに来て! それじゃあまたね!」
「あっ、!!?」
 ぴう、と走り去っていく。
 その姿はあっという間に山道の向こうへと消えてしまった。
 克也は彼女の後姿を見ながら、少々困惑した顔をした。
「……って、あんなに元気だったっけ?」


ー、何かあったんか?」
 家に戻って即刻食事を作り始めたに悟空が問う。
 どこか嬉しそうなその表情は、いい事があったのだろうと想像させた。
 は食器に料理を盛り付けつつ、悟空に笑いかけた。
「えへへ、実はねぇ、私の前の世界の知り合いがこっちに来たの。山村の方にいるんだけど……」
「へー、そいつ強えか?」
 うずうずしている悟空。
 は大きく手を振った。
「だめだよ!! 普通の人なんだからっ。格闘技なんて全然駄目なんだよ」
「そっかぁ……」
 少しつまらなさそうな顔をする悟空。
 対照的には至極機嫌がいい。

 これが、ちょっとした騒動になろうとは知る由もなかった。




完全にオリジナルです。
香坂由依と香坂克也は、悟空夢の10話あたりに出てきてます。
由依はともかく、克也は…名前だけだったかと思います。


2004・7・20