月のにじむ夜 「悟空、どうしたかな……大丈夫かな……」 天下一武道会の結果を気にしながら、大海のど真ん中で筋斗雲に乗っかり、ふよふよと漂っているのは、結局武道会を見ずに、逃げ出すようにして出てきてしまった、である。 涙を流すことは既に止めていた。 否、無理やり止めたとでも言おうか。 手近な村で腹ごしらえした彼女は、そのままずっと空にいた。 他に行く所もなかったからだ。 ブルマはまだきっと帰っていないだろうし、界王――父の所へ行く気もなかった。 今日は出来るなら一人でいたかった。 誰かの優しさに触れたら…どうなるか分からなくて。 泣いてしまうのが、恐くて。 筋斗雲は彼女を慰めようとしてか、時折、ユラユラと揺りかごのように揺れた。 一方、その頃。 ピッコロに勝利した悟空は、念願の天下一武道界優勝を飾っていた。 激戦により、会場そのものが闘技場以外のほとんどの形を失うという、とんでもない事態になりながらも、彼は戦い、そして勝った。 大怪我をしていたが、仙豆の力ですっかり回復している。 ピッコロにも仙豆を食わせてやり、元気になった彼は既にその場を立ち去っていた。 神に、「神になってくれ」とせがまれ、それをかたくなに拒否している悟空のその横で、もう一つの問題が待ち構えていた。 言わずもがな、チチとの結婚の問題である。 「悟空さ!」 「あ、チチ……」 悟空はチチと向き合い、しっかりとお互いの目を見つめ合った。 ブルマもここまで来ると口出しできない。 はこの場にはいないのだし…。 仲間は皆、かたずを飲んで二人を見守っている。 チチは真剣な目で悟空に問うた。 「あの女の子はもういねえだ。悟空さ、おらと約束したろ? おらと結婚するって。おらと――」 「チチ…」 手を伸ばし、悟空の腕に自分の腕を絡ませるチチのそれを、彼はゆっくりと外した。 驚く彼女に彼は苦笑いする。 「チチ、オラ、おめえとケッコンできねえ」 「なっ!! おら、ずぅぅっと待ってただぞ!?」 「……」 「約束したでねえだか!」 激しく怒り、悲しむチチを見る悟空の顔には苦笑いがあった。 「すまねえ……約束したのによ。でもよ……」 俯き、ぎゅっと拳を握り、それからまたチチを見た。 矢次に文句を言おうとしていた彼女の口が、悟空の真剣な目に発言を止める。 「オラ、と一緒にいてえんだ。無理、させたくねえんだ。 守ってやりてえ……だから……」 「……」 しん、とした――でも、そう長くもない時間が流れる。 悟空の、痛いまでの決意が伝わるには、充分な時間。 それを破ったのはチチだった。 「あーもういいだ!……そんな悲壮な顔で結婚するとか言われたとしても、嬉しくも何ともねえ。引き裂いてるのは、おらの方か……」 チチは深くため息をつくと、にっこり笑った。 「たまには遊びに来てけろ。さん連れてな」 「…チチ……ああ、わりぃな!!」 晴れやかな声でそう言うと、悟空は筋斗雲を呼び、皆に手を振って勢いよく空に飛び立っていった。 ――を捜して。 その後、泣き崩れるチチの姿があったというのは彼の知らぬ話。 「んー…アイツどこ行ったんかなぁ…」 筋斗雲で飛び立ったはいいものの、悟空にはこれといってが行きそうな場所に、あてがあるでもなかった。 あてのある場所といえば、ブルマ宅、カリン塔、天界…もしくは、亀ハウス。 だが、それらのどこかにいるとはとても思えなかった。 悟空は悟空なりに、の最後の言葉を考えていたから。 あの、『じゃあね』 や、『祈ってる』 は、もう会わない――そんな風に考えて言ったのではないかと。 彼は全神経を集中させ、の気配を追った。 不思議と、どこにいるか分かる気がして――。 悟空はなんとなしに筋斗雲を、その気配の濃厚な方に走らせた。 相変らず空と海の間にふよふよと浮いていたが、ふと何か直感じみたものを感じて、何もないはずの方向を見た。 「――?」 思えば天下一武道界場のある方角だったのだが、その時はそんな事、頭をかすめもしなかった。 一つの雲が、尋常ではないスピードで、こちらに近づいて来るまでは。 「…まさか」 まさか、ではなかった。 向こうの方から、大声で 「ーーー!!」 と自分の名を叫ばれた瞬間、彼女は筋斗雲を飛ばし、猛スピードで彼とは逆方向に逃げ出した。 彼――孫悟空から。 まさか、もうチチとの結婚式の招待状でも持ってきたとでもいうのか!? 冷静に考えればありえないと分かりそうなものだが、いかんせん今の彼女は、とてもそんな状態ではなく。 もう会わない…会ってはいけないという気持ちでいた、初恋の人。 チチという女性の旦那になるであろう、大好きな人。 せっかく泣かないで別れられた――あの場を後にできたというのに、今、会ったら泣く。 間違いなく。 笑顔でなんていられない。 半ばパニックになりながら、とにかく逃げる。 逃げながら、後ろにぴったりとくっついて来ている悟空に向かって半分キレ気味に叫んだ。 「何で追いかけて来るのよ、ばかーーーっ!」 「何で逃げんだよーっ!! オラ、話が……」 「話なんて私にはないいっ!!」 ギュンギュン物凄いスピードで黄色い線を残しつつ、筋斗雲が二つ飛んでいく。 一時間ほど飛んだだろうか。 このままでは悟空を振り切れないと悟ったは、自分の筋斗雲を、ぽんっと叩いた。 「ごめんね、筋斗雲! 途中下車!」 「あっ!!」 は『空間転移能力』……要するにテレポートで、いきなり筋斗雲の上から消失した。 筋斗雲はそのまま上へとのぼって消えてしまう。 悟空はきゅっと止まると、筋斗雲の消えた上空を見た。 「…まいったなぁ、消えちまったぞ…」 頭をカリカリかきながら、彼は思いあたる場所を考えた。 どさっという音がした。 前のめりになり、慌てて手をつき、周りを見回して位置を確認する。 無我夢中だったから、しっかりとした位置指定をしなかった。 全然知らない場所に飛ばされることはまずない筈だが…。 「……あれ?」 何となく懐かしい感じ――。 下を見ると、白砂。 それで思い出す。 ここは、自分が――幼い自分が、一番最初にこの世界へ来た時に現れた砂浜だと。 ここで悟空と出逢って、全てが始まった。 無我夢中の状態でここに来てしまうとは…。 はあの時と同じように白浜に横になり、目をつむった。 そうしながらポツリと呟く。 「…何で、追って来るのよぉ…」 ぽたり、と一粒、涙が砂に落ちる。 小さな頃に戻ってしまったかのようだと思った。 波の音に耳を傾け、砂の感触を感じながら、次第に意識は優しい闇へと落ちていった…。 (…ん、私、寝ちゃったんだ…) 意識が覚醒した時、は目をつむったままそう思った。 何だかんだ、色々な意味で疲れていたのかもしれない。 ――と、ふと、何やらおかしな感じがする事に気づく。 あるはずの砂の感触がなく、妙に温かい。 まるで、誰かに抱かれているかのような安心感―― (……ん?) ぱっと目を開けると、目の前に……彼の――悟空の顔が。 頭の中が、真っ白く――なる。 どうやらあぐらをかいた彼の上に座り、肩に寄りかかるようにして眠っていたようだ。 というか、どうして――? 「な、な、なっ……なん、で……っ…」 離れる事すら忘れ、は驚きの眼差しを向けつつ、彼の顔を指さした。 悟空は笑い、「やっと起きたかー」と軽い口調で言う。 の方は口をパクパクさせているというのに。 「何となくここだと思ってさぁ。そしたら寝てっから、起こしちゃ悪いし、そのまんまだと風邪ひくと思って」 それはありがたいが…じゃなくて。 「…ずっと、寝顔…見て、たの?」 「ん? ああ」 さらりと言ってのける。 は思わず赤くなってしまった。 あわあわと悟空から距離をとろうとするが、腕をつかまれ、引き戻され、挙句、抱きしめられてしまう。 は、また泣きそうになるのを我慢しなくてはならなかった。 「ヤダ! 放してよ!」 「オラの話聞けってー」 「イヤッ! チチさんとの結婚式には、絶対、ぜぇぇったい行かないから!!」 もう、どうしていいやら分からず、頭の中も心もぐちゃぐちゃで、知らず涙をボロボロとこぼしていた。 嗚咽もこぼれてしまう。 その様子に慌てながらも、悟空は一生懸命に語りかけた。 「何言ってんだ? オ、オラ…チチとケッコンしねえぞ?」 「なー………え??」 それまで止めようと思っても止まらなかった涙が、発言によってぴたりと止まる。 悟空の目をまじまじと見てしまう。 「――ウソ」 「オラ、嘘つかねえよ…」 眉根を寄せる悟空に、彼女はまたポロポロと涙をこぼし始めてしまった。 「うわっ! オラ、なんかワリィ事言ったか!?」 は首を横に振るが、一向に泣き止まない。 そんな彼女に慌てた悟空は、身体を己の腕の中に包み込むと、いつも、何度もしてきたように優しく背を撫でてやる。 彼女はその温かさを感じながら――泣きながら、何とか言葉をつむぎ出す。 「じゃあ…何で私を…追って…来た、の…?」 「…オラ、といると胸が熱くなんだ。オラがの事、トクベツに好きだからだってクリリンが言ってた」 「うん…」 「…二年近く離れてて…これ以上離れるなんて、オラ、ぜってえ嫌だ」 言いながらギュッと抱きしめ瞳を見つめると、彼女の瞳に溜まっている涙を、指でそっと拭ってやる。 「……オラは、とケッコンする」 「――うん…うんっ…!」 は涙をこぼしながら微笑んだ。 悟空も微笑むと、今だ泣き止まぬ彼女を止めるためか――または安心させるためか、はたまた過去にしたようにしたいと思ってか、優しく、その唇を奪った。 妙に脈打つ鼓動を感じながら、幾度も、幾度も、とキスを繰り返した。 彼女の涙が完全に止まり、暫くするまで――。 どうしようかと本気で悩んだ回。チチさんごめんなさい。 2004・6・10 |