見えない交差



 夕食前。
 いつもの見慣れた部屋に、明かりは点っていなかった。
 無音の空間の中に、ただゆったりとした空気の流れがある。
 そして、淡い、緑色の輝きが。

 部屋の主であるは、暗い部屋のほぼ中央の床に足を組んで座り、背筋を綺麗に伸ばして、両手でゆっくりと、なだらかな小円を描き、解いてはまた、円を描く作業を繰り返していた。
 太極拳を思わせる動きの手には、淡い緑色の輝き。
 これが、部屋の中での、唯一の灯り。

 は、フッと手を組み合わせ、緑の光を手の中にくるみこむようにし――くっと意識を集中させ、手のひらを上に向ける。
 その瞬間、輝きは手の平の上で緑色の輝きを増し、球体の形をとって、付かず離れず、フワリフワリと浮いた。
「……ふう…」
 が力を抜いて息を吐くと、緑球は霧散し、消えた。
 彼女はすくっと立ち上がると、パチンと音を立て部屋の明かりをつけた。
 文明の明かりが、先ほどまでの神秘的な光の余韻を完全に断ち切る。
「うーん……大分上達した、かなっ」

 中学三年、十五歳のは夏休みに入ったばかりだった。
 高校受験に向けて、考えなくてはいけない時期なのだが、彼女は武道……太極拳、空手、少林寺、棒術などにもっぱら力を入れていた。
 無論、勉強もきちんとしていたし、人並みかそれ以上に成績がよかった。
 それゆえか、母親は武道に関して何も言わない。
 母からは、「始めてから、集中力が格段に上昇したから」 と言われたが、実際は父を亡くした事を克服し、強くさせてくれたのは、武道のような気がしたからでもあり、ある予感めいた想いがあってのことだった。

 この子は、強くなければ、きっと生き残れない。
 ……馬鹿げているとは思ったが、母親はその予感に否定的になれなかった。

「ねえ、。また肩揉んでくれないかしら?」
 夕食の席で、ニコニコと笑いながら言う母に、
「いいよ〜」
 明るい口調で答えた。

「うーん……の肩揉み、凄く気持ちいいのよねぇ…」
 まるで温泉にでも入っているかのような口調で話す母に、彼女は苦笑いしながら気をコントロールしつつ、手に例の ”淡い緑色の力” を纏わせ、肩を揉んだ。
「あんた、整体の先生にでもなったら?」
「やぁよー」
「じゃあ、何になりたいの?」
「……考え中。……はい、おしまい」
 ぱっと手を離す。
 それと同時に、”力” を霧散させた。
 母は少々不満気に、『もうちょっと…』 などと言っていたが、は「お風呂入るねー」と誤魔化しつつ、リビングを後にした。
 その娘の後ろ姿を、母は真剣な眼差しで見ていた。

「ぷはーぁ……きもエエ…」
 湯気の沸き立つ風呂場内。
 湯船の中で、はバスタブから腕をデローンと出し、ゆっくり浸かってホクホクしていた。
 疲れが、お湯に溶けてなくなっていくよう。
 洗ったばかりの髪は、湯に浸らないようくくって上に上げられ、前髪からはまだ水滴がポタポタと滴っている。
「…まだまだ、上手く力が使えないなぁ」
 風呂の中で反響する声は、何となしに耳に心地よい。
 彼女の手は、武道をやっているとは思えないほど綺麗だ。
「…悟空……」
 湯船のふちに手と顎を乗せたまま、瞳を閉じて名を呟く。
 毎夜毎夜、見続けている夢の中で、意識しても殆ど見る事が出来ない――大好きな人の名前。
 辛い時、苦しい時、悟空の笑顔を思い出すだけで、不思議と力が湧いてきた。
 遥か遠くで、『負けるな!』 と、応援してくれている気がして。
 ――の、初恋の人。
 どんな人に、何人に告白されてもYESと言えないのは、多分――まだ終わっていないから。
 終わろうとしていないから。彼女の、想いが。
「私もまだチビィけど、悟空はもっとチビかったなぁ…相変わらず」

 つい一年前、治癒の力を初めて発揮した時の事を思い出し、クスクス笑う。
 あの時は授業中にも関わらず、悟空が苦しんでると思って、何をどうしたのか彼の側に行ってしまい――そこで彼が少しでも苦しまないようにと、祈りを込めて自分の力を送り込んだ。
 先生に起こされて、こちらの世界で目覚めたが……。
? 何一人で笑ってんの」
「っ……ぶっはぁっ!!! か、母さん…」
 いきなり声をかけられ、足元を滑らせ、頭まで湯船に浸かってしまう。
 不意打ちとは卑怯なり……ではなくて。
「なっ、何…?」
「上がったら、ちょっと話あるから、リビング来なさい」
「? うん」
 風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かして寝巻きに着替え、それからリビングへ。
 母は麦茶を入れてくれ、「そこに座って と微妙に神妙な顔で告げ、はそれに素直に従った。
 自分用のお茶を入れると、母は彼女の真正面に座る。
「…母さん?」
「…、母さん、ちゃんと知らせておかないと、いけないと思ってね」

 一瞬の、重い沈黙。
 の脳裏によぎったのは、かつて父が亡くなったときに言われた、『あなたは、私達の本当の子供じゃない』 という母の言葉――。
 あれから何だかんだと、事の核心を聞かず、ここまで来てしまっていた。
 何故、今、急に?
 その疑問の答えは、考えていても、出て来そうにない。
 彼女の内の葛藤を知らずや、母は存外、軽く口を開いた。
 昔を、懐かしむかのように。
「あの日は雨で――いつもならとっくに帰ってきてる父さんが、いつになく遅かった。遅くなるなら連絡してくれればいいのにって、そう――思った矢先だった」
「お父さんが、帰ってきた?」
 の問いに、母は頷いた。
「あんたを、抱いてね」
「私を――?」
「雨に打たれて父さんは全身ズブヌレ。あんたを庇うように抱いて、『とにかくこの子を!』って。私は訳が分からないまま、あんたを受け取って、毛布にくるんでやろうとして…その時よ」
「?」
 母は微笑みながら、の顔を見た。
「……あんたが私の事を、大きな目をパチパチさせて……私の服を小さい手でギュッと掴んで……笑ったの」
 情景を思い描いているのか、母は目を閉じていた。
「――自分の子でもないのに、笑ってくれたのが凄く嬉しくて涙が出そうになって…。そこへ父さんが着替えてきて、『帰宅途中で、捨てられてるのを見つけた』って」
「…モメなかったの? 私を…その」
 拾ってきた子供を、すぐに育てようという発想をする人がいるとしたら、ごくごく少数だと思われた。
 だが自分の両親は、その ”少数” の人間だったらしい。
 元々、母は子が望めない体だったらしく、育てる事に異議を唱えはしなかった。
 もしこの先、本当の両親が現れたら――。
 それを考えると空恐ろしくなったらしいが、今、がここにいるという事は、本当の両親は今の所来ていない――のだろう。
「そんな訳で、あんたは、私たちの子になったのよ」
「そっかぁ…」
 もっと物凄いショックを受けるかと思っていたのだが、案外すんなりと、事実を飲み込む事が出来た。
 は…以前よりずっと、強くなったのだ。
 母親はそれを思うと、嬉しくなってしまう。
、好きな人でもいるの?」
「え!!?……うー……まぁ…」
 指を動かし、もにょもにょ喋るに、母は微笑んだ。
「”好き” って言える強さも必要よ?」
「…わかってまーす」
 言えれば……苦労はない。
 母は彼女の好きな人が、どんな人か知らないから軽く言ってくれるが。
、何があっても、負けないのよ」
「…う? うん…」
 ふと過ぎった――嫌な考え。
 まるで父の亡くなる前に逆戻りしたかのような――そんな錯覚に陥った。
「もう寝なさい。明日は、勉強の日でしょ?」
「うん、おやすみ」
 お休み、と優しく言う母。
 はニッコリ笑って、もう一度言った。

「オヤスミなさい」




 翌週。
 は、仏壇の前にいた。
 父の遺影の横に、母の遺影が飾られている。
 そう、母は…に、彼女が拾われてきた時の話をしてから数日後に

――突然、亡くなった。

 死因は聞かされたが、覚えていない。
 父の死のときと、同じようなパターンだと、頭の隅で思う。
 仏壇の前で制服のまま、は泣きながら横になり、膝を抱えるようにして、うずくまっていた。
「母さん……予感でもあったの? だから、私にあの話……」
 膝を抱えたまま、ポロポロ涙を流した。
 親族はいないらしく、葬式の全てを近所の人の協力を得て、ほぼ一人でまかなった。

 両親を失った絶望。
 見えない未来。
(逢いたい……)
 母に言った、「オヤスミなさい」 が、最後の言葉だなんて。
(逢いたいよ……)
 不思議に、頭に浮かぶのは…悟空の事ばかり。
 あの笑顔があれば、泣くのを止められる。
 そんな気がして。
 父も母も、触れられぬ者になってしまった。
 …この上、悟空にまで……この先ずっと、触れられないとしたら?
(逢いたい…触れたいよ…もう、イヤ…イヤだよ…)

「悟空……」

 ポツリ、その名をこぼす。
 瞳を閉じれば、涙がポタンと畳床に落ちた。

 彼女は、そのままうずくまって、眠ってしまう。

ポタリ

ポタリ

 眠りながらも、泣き続ける

――ポ、タン。



 近所の人が心配して様子を見に来た時、彼女の姿は家の何処にもなかった。
 あったのは、仏壇前にある、涙の痕だけ―――。





2003・7・15