戻りの刻 天下一武道会まで、後五日と迫った、ある夜の事。 その日、悟空は浅い眠りについていた。 眠ってしまったが最後、次の日の朝までは大抵起きない彼にしては珍しく、夜中―――でもないが、遅い時間に目が覚めた。 「……あれ? は……」 ごしごしと目をこすって、視界をクリアにしてみる。 だが、いつもあるべき場所である彼の隣に、彼女の姿は見えない。 最近ではランチの方が床で寝て、ベッドに悟空とが寝ていた。 布団に触れてみると、大分前に抜け出したのか、彼女の体温は欠片も伝わってこなかった。 悟空は不審に思い、ベッドをすり抜け、下の階を見てみた。 だがいるのは寝ている亀仙人と、クリリンだけ。 彼女は、いない。 その事が、不思議と焦りを生んでいた。 どうしてかは分からないが、彼女が遠くに行ってしまったような錯覚に陥って。 彼女に、二度と会えない気がして。 彼の胸が、感じた事のない感情に支配されていた。 「…あ」 何の気なしに外に出て、ふと、彼女を初めて見つけた浜辺へ足を向けると、そこに彼女がいた。 膝に顔を押し付け、肩を震わせて。 悟空は彼女がいた、と、ホッとしながら、軽い口調で声をかけた。 「おーい、〜」 「っ……ご、くう…」 突然の登場に驚いたのか、体をびくつかせ、振り向く。 その瞳は、涙に濡れていた。 彼はそれに気づき、怪訝な顔をする。 「どした? どっか痛いんか??」 「ううん、違う。平気。…ちょっと、お父さんのこと思い出して…」 「そっか」 軽く答える悟空。 深く突っ込まれない事を、感謝した。 いなくなってしまった父親。 遊園地へ、連れて行ってくれると言っていた父親。 父が死んだ時、母親から「本当の子供じゃないの」と付け加えられ、自分が空っぽになってしまった気がした。 自分の中には、何もない気がした。 『強くなりなさい』 という父の言葉が、頭に回って。 だから、この世界で――亀仙人に修行をつけてもらって――。 でも、やればやるほど、父の言っていた『強さ』から、かけ離れていくような気もして……。 それで、気づいた。 父の求めていた 『強さ』 に。 「ねえ、悟空」 は夜空を見上げたまま、悟空の方を見ずに声をかけた。 すぐ隣に座っている、彼に。 「私ね、すっごいイジメられっ子だったんだよ」 「へ? おめえ、イジメられてたのけ?」 「うん、そう。毎日砂かけられて、蹴られて、殴られて」 ふぅん、と軽く返事をする。 ――と思うと、いきなり彼は両手で砂をすくって、どばばっとにそれを振りかけた。 いきなりの行動に、目をつぶる事しか出来ない。 ぽかんとしている彼女に、悟空は大笑いし出した。 「はははははっ!! の頭、砂だらけだ!!」 「こんのぉー!」 口の端を上げながら、おかえし! とばかりに砂を悟空にぶっかける。 「ぶわっ!! やったなぁ!」 「そっちが先でしょ!」 夜空の下、楽しげな笑い声と共に、砂の掛け合いをする悟空と。 彼女は、不思議に思った。 イジメっ子たちと同じ行動をされているのに、どうして悟空とやると、楽しいんだろうか? 無論、自分が反撃しているというのもあるだろうが…。 (……ああ、悪意がないからだ…きっと) ふと、そんな事を思った。 暫く砂の掛け合いを続け、砂まみれになった辺りでやっとこ止める。 悟空とは頭を振り、体にかかった砂を払いのけた。 二人で顔を見合わせ、「ぷははっ」 と笑う。 「砂だらけだなぁ」 「せっかく、お風呂入ったのにね」 言いながら、座りなおす。 悟空の隣に腰掛け、さっきと同じように夜空を見上げた。 悟空は、しんみりしている彼女に、いつもの元気な声を浴びせかける。 なんだか、そうして自分が喋らなければ――彼女が、遠くへ行ってしまう気がして。 「もしさ、もしまた…おめえがイジメられてたら……そん時は、オラがそいつらをやっつけてやる!」 「あははっ、ありがと。…悟空は優しいね…まっすぐで、強くて…」 は白砂を手に取ると、さらさらと手の平から零して落とす。 「私、まっすぐな悟空が、大好きだよ」 にこり、微笑んで悟空を見る。 彼は一瞬ポカンとした。 自分の心臓が、跳ね上がった気がしたからだ。 ドクドクと、実に奇妙な感覚が体を包む。 だがすぐにいつもの調子に戻り 「オラも、の事、好きだぞ」 笑って言った。 「……私ね、強くなるって……悟空やクリリンみたいに、強くなる事だって思った。最初ここに来た時は――そう思ってたんだ」 「?」 また白砂を掴んで、サラサラと零し落とす。 悟空はの顔を見たまま、無言で次の言葉を待っていた。 「でも、違うって分かった。お父さんが言ってた強さは…心の強さだって、分かった」 「心の、強さ…?」 「うん」 サラサラ。 彼女の手から、白砂が落ちる。 父のことを思い出して、彼女の瞳からぽろぽろと涙があふれた。 何故彼女が泣くのか、悟空には分からなかったが、 声をかける事はしなかった。 見とれていた――と、言っていいかもしれない。 サラサラ。 ぽたぽた。 「…、泣き虫だなぁ」 苦笑いしながら言ったそれは、彼と最初に出会ったときにも、言われた言葉。 だが、次の言葉は――最初には、なかった言葉だ。 「おめえが泣いてると、何でかオラまで悲しくなるんだ。だから、笑ってるおめえの方が好きだ。……でも」 「悟空?」 彼を見やると、いつもの二カッとした笑顔で、を安心させながら――とんでもない事を言った。 「泣いてるおめえは、キレーに見えんだ。なんでだろな」 「ごっ…悟空……っ」 途端に涙が止まり、顔が赤くなる。 何て事を言うんだろう、この人は。 そりゃ、何の意図もないのだろうけど…。 は、意識した。 (ああ、多分これが、初恋なんだなぁ……) と。 彼女は夜空を仰ぎ、 『少しは、強くなれたみたい…かな?』 と、思った。 サラサラ。 サラサラ。 手の平から零れ落ちる砂。 それを右手で零し落とさず、掴めるだけぎゅっと握った―――瞬間。 「おわっ!! !?」 「え……」 「おめえ、体が透けてんぞ!!?」 悟空の一言で、自分の体を見回す。 確かに、彼の言うように透けていた。 青白く光り、手の先、足の先から髪の先まで――透けて、消えて、溶けて、なくなって行くみたいに。 目をつむると、フッと、自分が元いた世界が脳裏を過ぎった気がした。 (あぁ、戻るんだ……あの場所へ……あの時間へ……) は何となく理解した。 自分のいた世界に、戻るのだと。 彼女は驚いている悟空に、精一杯の笑顔を見せた。 本当は、まだ戻りたくない。 でも、『時』 は、待ってくれる様子もなくて。 「悟空…私、戻るみたい。自分のいた場所に…」 「へ?」 よくわからないと怪訝そうな顔をする悟空だったが、戻れる場所が分かったならいいのだろうと、いつもの人のいい笑顔を向けた。 「ねえ悟空」 透け行く体。 でも最後まで――話がしたくて、一生懸命語りかける。 もっともっと、彼の笑顔が見ていたくて。 一緒にいたくて。 楽しい事、たくさんしたくて。 でも――今言えるのは、本当に願っているのは……。 「天下一武道会、絶対絶対、頑張ってよね!」 青白い光りの中にいるに、悟空は 「おう!」 元気よく返事を返した。 彼女の大好きな、笑顔と一緒に。 「悟空……私の事、忘れないでね……」 精一杯の、笑顔。 ――瞬間、彼女は、悟空の目の前から消失した。 サラサラ。 サラサラ。 悟空はがいなくなった白浜で、さっきまで彼女がそうしていたように、白砂を手の平に乗せ、零し落としていた。 サラサラ。 サラサラ。 満天の星空。でも、もう彼女はここにいない。 さっきまでいたその人物。 今はいないその人物に向けて、悟空は小さく、囁いた。 「忘れたりなんて、しねえさ…絶対…」 白砂をギュッと握り締め、力のこもった瞳で、夜空を見上げる。 「オラ、武道会がんばっかんな! も頑張れよーーーー!!!」 ふと、目が覚める。 泣いていたのか、涙の後が残っていた。 「……悟空……?」 起き上がると、そこはいつもの――自分の部屋のベッドの上で。 いつもの夢だっただろうか? 不思議と、そうは思えなかった。 「……?」 ぎゅっと閉じられたままの右手に違和感を覚え、それをそっと――大事なものを包んでいたかのように、開く。 「これ――」 そこにあったのは、白い、砂。 悟空と掛け合った砂。 夢の世界で握り締め――自分が消えるのだと、元の世界に返るんだと分かっても、ずっと握っていた白砂だった。 「……夢じゃ、ないよ…ね」 夢じゃなかった白砂という現実がそこにあって。 はそれを小さなガラス瓶に丁寧に入れると、机の上に飾った。 夜空の光を受けた白砂は、不思議に光っているようにすら見える。 「……悟空、クリリン、亀仙人さま…私、強くなるよ…」 白砂の入った小瓶を見つめ、微笑む。 いつか――いつかまた会う時には、もっともっと、心も体も強くなって、一緒に修行したいと、心から思いながら。 2003・5・3 |