行きつ戻りつ 3



 夕食前のスーパーでは、主婦の皆さまが忙しない動きをしている。
 その出入り口付近で折り畳み傘を手にしながら、は空を仰いだ。
 ちらちらと降る雪は今のところ止む気配がない。地面に積もる程ではないにしても、微妙なお湿りが周囲の気温を若干下げている気がする。
 吐く息は当たり前のように白い。
 スクールバッグと買い物袋を持つ右手が、重みと寒さでかじかんでしまう。
 家に帰ると面倒だからと、学校帰りに学校帰りに全部済まそうと思ったのが不味かった。
 右手は荷物で塞がっているため、左手で傘を開く。ぱん、と開いた衝撃が腕に響き、は僅かに顔を顰めた。
「明日には完治しておくれー」
 己の体に無茶を言いながら、帰路に向かって足を踏み出す。


 雪のせいか普段よりも人通りが少ない――というより全くない。
 帰路は明かりの多い道を選んでいるが、人の目がないというのは非常に不味い。承知の上だがこればかりは仕方ないこと。
 知人が手を打ってくれてはいるだろうが、彼らにも色々と込み入った事情がある訳で。たまに飛んでくる問題ぐらいは、独力で解決すべきだろう。
「って言っても、限界があるか……」
 正面へと現れた複数の気配に、は溜息を吐きながら肩に傘を当てた。
 街灯の途切れた暗がりの中、いつの間に現れたのか黒塗りのスーツを着た2人の男が立っている。
 長身の男2人は、どう見ても会社帰りのサラリーマンではない。ここ数年で慣れてしまった、肌に突き刺さるような緊迫感を発する持ち主たち。
「私にご用件でも」
 荷物を手にしたまま、は訊ねる。実は質問の必要などない。彼らはたいていの場合、同じことを言ってくるからだ。
 静かに、けれども真っ直ぐ通る彼女の声に、長身の男は身じろぎもせず答えた。
「我らの傘下に入れ」
 いがらっぽい声。当然のように聞き覚えはない。
 は緊張と寒さで喉がひり付くのを無視しながら、凛とした態度を崩さないように心掛ける。
 彼らのような雰囲気を持つ人たちと対するのは慣れた。ただそれは、そういった人々とやりあう事に対してではない。
 雪の勢いが先程より強くなってきた。早く帰りたいが、素直に返してはくれないだろう。
 無言の彼女に、男は強い口調で言う。
「もう一度言う。我らの下に付け。傷を増やされたくはないだろう」
 男の視線が腕に向けられているのを感じる。
 手傷を負わせたのは彼らではない。彼らの一員ではあろうけれど。
「ボンゴレの保護下にある私を力で奪うのは、彼らに銃口を向けるってこと――なんて、言わなくても分かってますよね」
 無言の肯定。は深々と溜息を吐いた。

 ボンゴレファミリー。イタリアンマフィアとして、有名すぎて困る程の一家。
 ボンゴレは、10代目ボス沢田綱吉を筆頭に、年若い者たちで構成されている。
 は中学の時、親戚筋である山本武、そして三浦ハルという友人を介して綱吉に出会った。
 知らぬうちに彼の守護を努めるべき者たちと顔見知りになった頃、の人生は一変する。
 綱吉の家庭教師、最強のヒットマンの名を冠する赤ん坊リボーン。
 彼と顔を合わせたことで、彼女は己の血筋が少々特殊なものだったと知ってしまった。
 ――ボンゴレの庇護下に入るか、今すぐボンゴレに狩らるか、選べ。
 赤ん坊の提示は選択の余地がない代物だった。
 けれどももしあの時保護されていなければ、どこかの組織にいいように使われ、今こうして高校など行っていられなかっただろう。
 ボンゴレはその名でを守る。本当に必要な時はも彼らに手を貸す。
 そうして数年を過ごしてきた。

「貴方がたがどういう風に私の存在を耳にしてるか知らないけど、私を囲って有益なことなどありませんよ」
「そうは思わない」
 長身男の側ら、べったりと整髪料を付けた男が淡々と言う。
「鬼炎流短刀術の継承者がなにを言う。幻術の類は一切効力を成さず、またそれを切り裂く力を持つのだろう」
 はやれやれと首を振る。
「そんなもの、普通の一家相手に使います? あと、ボンゴレと戦うつもりなのでしたら、私では圧倒的に力不足だとお伝えしときますけど」
 実際、自分の戦いにおける力などたかが知れている。ボンゴレ守護者とは比べるべくもない。
 普通よりも少しだけ短刀の扱いに長けていて、母の遺した短刀を使うと、丁度、ツナが死ぬ気になったのと似通った状態になる。
 短刀を抜き身に出来るのは、鬼炎流を継ぐの正式な血筋の者のみで、現状ではとその祖父だけ。故に、血筋の特異性は認める。
 だが血の稀少さが強さに直結している訳でない。
 さっさと帰ってくれと願うに対し、長身の男は静かな、けれど強い口調で言葉を吐いた。
「お前を我らのものにし、その血筋を増やす。お前は鈍(なまく)らを装っているが、現状でもわたし達の手管を追い返している」
 使い方によってはいかようにも有益な駒になる。言い放つ男に、はきつく眉を寄せた。
「悪いけど、私、ツナや山本と、極力平穏に過ごすって約束したんで。一生遊んで暮らせると言われても――お断りします!」
 会話の途中で距離を詰めてきた長身の男に向かって、買い物袋を投げつけた。袋の中で卵が割れる。
 同様に整髪料男には傘を投げつつ、は髪留めのひとつを引き抜くと目の前で構え、長身が飛ばしてきたナイフを全て弾く。
 綺麗な青のそれを抜き身にし、距離を取った。
 の持つそれを見、長身男の口唇が弧を描く。
「髪留めに変化させて持ち歩いていたのか」
「……ボンゴレの技術サマサマって奴です」
 ただ鞘を持っているだけなのに、左腕が痛い。
 ここ数日の襲撃で疲れと怪我で、普段以上に動きが鈍いことをは自覚している。
 銃を出して来られたら一貫の終わりだが、今のところその様子はない。
 じりじりと後退しながら、はどうにか窮地を切り抜ける方法を探して頭を回転させる。
 祖父の所へ逃げ込めばなんとかなる。しかしその道のりは決して近いものではないし、こんな状態では通行人に危害が加わらないとも言い難い。
「大人しく来い」
 整髪料の男が細い糸のようなものを飛ばして来る。右腕を取られた。
 そちらに気を取られた隙に、もう一人がの怪我した腕を拳で思い切り打ちつける。そのままナイフの柄で彼女の右腕を砕きにかかった。
 ――やられる。
 痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じたに、けれど衝撃は訪れなかった。
 換わりに、男二人の苦痛の声が。
 何事かと目を開く。
「……え?」
 の腕を拘束していたはずの男が、顔面を地面に叩きつけている。近くに傘が転がっていた。
 長身の方も、電信柱に背中を打ちつけて頭を垂れていて。
 混乱するの視界には、先程までなかった姿が在る。
 ふわふわの髪に黒いコートの男性。
 しょっちゅう見ているのに、よほど頭の中がぐちゃぐちゃになっているのか、名前が出て来ない。
「うちの可愛い子になにしくさってくれてんですかァ」
「えっと……あ、れ……?」
 ――銀八先生? なんで、このひとが?
「よォ。暴漢に襲われちゃってるちゃん。ヒーロー登場ですよー」
 こちらを向いて笑いながら言う彼。その手には木刀が握られている。まさかあれで二人を吹っ飛ばしたのだろうか。俄かに信じがたい。
 それでも場にそぐわない妙に軽い口調は、の緊張を解くどころか余計に焦りを生む結果になった。
 彼は一般人。マフィアになんて全く関わりがない人。自分のせいで彼を危険な目に遭わせるなんて以ての外だ。
 のろりと長身の男が動く。吐きだした唾には赤色が混じっているようだった。
「せ、先生、逃げてっ。とにかく逃げて下さい!」
「お前を放って逃走しろって? 土台無理な話じゃねーのソレ」
「わたっ、私も逃げますから――」
「邪魔をするな!」
 男の声と同時に、は銀八の前に出ながらふっと息を吐き、手にしたままの短刀と鞘に力を灯した。
 白い炎で満たされた短刀は刀身を伸ばし、鞘はその身を短刀に変える。その直後に飛んできた――主に銀八を狙った――全てのナイフを逸らす。
 長身の男に手傷を負わせて撤退させるべく踏み出したの足は、一歩を踏んだ所でぴたりと止まる。
 いつ移動したのか、の背後にいたはずの銀八が長身の男の前にあって。何が起きたのか、長身男がぐしゃりと力なく地に伏して、動かなくなった。浅いながらも胸は上下している。気絶したのだろう。
 銀八は、ひゅ、と軽く空気を切って――まるで血糊を落とすみたいに木刀を振る。妙に堂に入ったその姿が、の目には違和として映った。
 彼は暫く男を見ていたが、大きく溜息をついての元に戻ってきた。
 なにを口にしたらいいのか。は困惑しながら短刀を鞘に戻す。白い炎が集束して消え、刀はただの髪留めになる。それをいつもの様に後ろで括り上げた髪に着けた。
「どういう原理なんだそれ? 桜模様のかんざしにしか見えねーけど」
「そ、そんな事より先生はどうして――っ!!」
 危ないという言葉を発するより先に、は銀八を体で突き飛ばした。否、押した程度だったかも知れない。それでも彼の体は横に流れた。
 代わって正面に出たは、一気に熱の広がった己の腹部に顔を歪める。
 ――もう一人、居た。馬鹿だ。油断、しすぎ。ぶきをしまう、なんて。
 今まで様子を見計らって隠れていたらしい男の手には、ダガーナイフ。
 無意識に腹部を押さえた手に、滑ったものが付着した。
 顔を上げ、は男を見る。表情を見る程の余裕はなかった。視線を向けた時には、銀八の木刀がその男を文字通り倒していたからだ。
 傷は深くないはずだ。思う心とは裏腹に、体から力が抜けていく。
 背中に感じる温もりで、銀八が体を受け止めてくれたのだと知った。
「せん……せ……」
 こつんと硬いなにかが当たった途端、体の中がぐちゃぐちゃにされるような、吐き気を伴う感覚に襲われ、の視界は白で塗り潰される。



 ふわりふわり、雪が降る。
 白色が舞うその場所に、と銀八の姿はなかった。



更新:2011・6・8