互国響動 48 ―紋章の世界―



 雨が降っている。
 おれは空から滴り落ちてくる雫の下に立ちながら、何故、自分が外にいるのか分からなかった。
 記憶では、眠ろうとしてベッドに入ったはずだったからだ。
(……夢、なのかな?)
 自分で自分の行動を制御できる夢というのを、初めて見た。
 髪を濡らす雨を鬱陶しく思いながら、周囲を見回す。
 間違いなく、今世話になっているマクドール家だった。
 ぼうっとしているおれの前に、見覚えのある少女が立つ。
(――!?)
 思わず声を張った。でも、彼女にはなんら反応がない。
 目の前で手をヒラヒラさせてみても無反応で、彼女にはおれが見えてないみたいだった。
……だよなあ)
 おれの知っているは、少なくとも16歳か17歳程度の姿だが、今目の前にいるのは、どう見ても10歳以下の子供だ。
 それでも彼女だと思うのは、面差しが似ているからだ。
 ただし、触れたら今にも壊れてしまいそうな雰囲気も、この世の終わりみたいな虚ろ気な眼差しも、おれの知る彼女にはないけど。
 彼女の持つ子供らしからぬ雰囲気を、おれは知っている。
 ――出会ったばかりのグレタが、こんな感じだった。
 らしき少女が家の前に佇み始めて、数分――いや、数十分が経った。
 今しがた家に帰ってきたらしい、見覚えのある少年が、少女の前に立った。
 少年の目は綺麗な紫色だ。
「どうしたの、僕の家に用事? 雨に濡れてたら風邪を引くよ」
「……私」
 掠れた声。
 覇気がなく、意思すらない。
「私、といいます。……売られてきました」
 衝撃的な少女の言葉に、少年はアメジスト色の瞳を見開いた。
 おれは確信する。
 これは絶対夢だ。それも普通の夢じゃない。
 ――過去を見てるんだ。の。そしての。



 少女は自分の状況を、子供ながらに理解しているようだった。
 少年や、今よりもずっと若いグレミオさんに、自身の身の上を語る彼女の姿は、ひどく痛々しい。
 おれは椅子に座れるでもなく、の近くでただ彼女達の話を聞いていた。
 簡単に纏めると、の両親は彼女をここにつれて来た男の手によって、命を奪い取られたらしい。
 彼女の両親は元々は王宮付きで、けっこうな仕事についていたみたいだけど。
 両親は強い力を持つ紋章師ってやつだったようだ。
 間に生まれたも、当たり前みたいに魔力が強かった。
 幼い彼女は詳しい事情を知らないようだったが、自分が権力のある貴族――の父親――に売られたことだけは理解していた。
 もちろん、の父親は受け取るつもりはないだろうけど、でも、に戻る場所がないのも事実で。
 おれは知らず、口唇を噛み締めていた。
 これは夢なんだ。
 でもきっと、確実に『あった』ことで、だから腹が立つ。
 気丈に振舞っているというより、総てを投げてしまっているかのような
 おれは彼女の肩に手を触れさせてみる。
 気づかれることはないけど、でも、なんだかそうしたかった。

 その日の夜、と共に眠った。おれは正直に言えば、大人気なく嫉妬してしまったけれど。
 の、かたくなになった心を、少しずつ解きほぐして行く気みたいだった。
 に向かって、「僕と家族になろう」と言っていた。
 最初こそ表情の変わらなかっただけど、の言葉がよほど嬉しかったんだろう。
 ふうわりと笑った彼女は、おれが良く知ってる彼女のものに似ていた。
(……少年のは、なんていうか……当たり前だけど普通の子だよなあ)
 今のを知っていると、彼の将来の姿が不思議に思える。
 明るくて、どこからどう見ても普通の少年にしか見えないが、今のように育つとはとても思えなくて。
 おれが今見ているのはきっと過去のことだけど、このまま平和に2人が暮らしていければいいのにと、心底そう思う。
(……そうすると、おれとは出会わなかったかも知れないんだよな)
 それは非常に困るんだけどさ。
 ところで、おれっていつ目が覚めるんだろ……ほっぺたでも抓るか?
 思い、頬を軽く抓ろうとした瞬間、おれの目の前が一変した。

(なんだ……?)
 唐突に変わった場面に、一瞬目眩を起こしたような感覚に襲われる。
 視界に現れたのは、今度こそ完全に見慣れない場所。
 石造りの建物の内部で、相変わらずの仏頂面をしているルック。
 そして怒りの面差しでいる、今と殆ど変わらぬ姿の。その怒りの面を向けられているの姿があった。
 状況は掴めないが、単なる喧嘩ではない雰囲気がある。
 おれは、自分が怒鳴られるでもないのに妙に居心地が悪くて、この場から逃げ出したくなるが、映像は切り替わってくれない。
 考えているうちに、の右手を掴み、切実とも言えるほどの声で訴えた。
、今すぐこれを外すんだ。今ならまだきっと間に合う!」
 だが、彼女はゆるりと首を横に振る。
 真剣な眼差しでを見つめていて、一歩も引く気がないみたいだ。
 が外せと言っているのは、が宿している『紫魂の紋章』のことだ。
 どうやらおれは、の歴史を断片的ながらに見ているらしい。どうしてなのか、まったく分からないけれど。
 ただ、夢を見ているんだろうと思った。
 おれの意思で見ているおれの夢なのか、そこは怪しいけど。
 の右手の紋章は、が側にいるからなのか、または付けたばかりだからなのか、薄く明滅している。
 同じように、の紋章も。
 互いが呼応しているみたいだ。
「君まで争いに巻き込みたくない。そんな紋章を付けていたら、狙われるかも知れないんだぞ!?」
「……
、頼むよ。オレは、君に辛い思いをさせたくない……」
 泣きそうな顔のを見て、おれは少なからず驚いた。
 おれの知ってる彼は、強くて、冷静で、何事があっても動じない気がしていたからだ。
 しん、と場が静まる。
 それまで黙っていたルックが、ため息を吐き出した。
「僕には関係ないけどね。今更な話なんだよ。紫魂はただの紋章じゃない。生と死の紋章の宿主が心から想っている奴でないと、宿せないんだ」
「だけど」
「まあ聞きなよ。紫魂を身につける限り、生と死の紋章に命を狙われたりはしない。その辺の暗殺者なんかより、あんたの持つ紋章のほうがよほど危険だ。大事に思うなら、彼女と共に歩くほうがいい」
 ルックはまたもため息をつく。
 は何も言わず、ただ口をつぐんで、まっすぐを見続けているだけだ。
「そもそも身に着けた時点で、この子はあんたに人生を委ねてるんだよ。あんたが紋章を外したり、もし死んだりすれば、彼女は紋章に食い荒らされる。一心同体だと思っておくべきだ」
「そんな……」
 はショックを受けたような顔でを見つめ、それから何度も彼女の手にある紋章を、指先で擦っていた。
 当然、消えるはずもない。
 おれはの必死な表情を見て、彼が本当にを大事にしているんだと、改めて思い知らされた。
 それに、に対する感情の強さも。
 もしおれなら、自分の人生を人に投げ打ったりはできないだろう。
 それほどが好きで、大事に思っている。
 心臓のあたりが、ぎゅう、と締め付けられた。
 なんだよユーリ。こんなことぐらいでめげるな。
 を大事に思ってるなんて、分かりきってることじゃないか。
。私ね、レックナート様に聞いたの。紫魂の紋章を私が宿せば、の紋章の力を少しは抑えられるって」
「そのために……自分を犠牲にするなんて」
「犠牲じゃないよ、。私がそうしたいと思ったからだよ。……昔、は私を助けてくれた。私もあなたを助けたい。力になりたい。だから」
 目を瞬くは困ったように微笑んだ。
「迷惑だったら、ごめんね」
「迷惑なんてそんなの、あるはずないだろ!」
 が、ぎゅっとを抱きしめる。
 ――ああ、本当にこの2人は想いあってるんだ。
 おれが入る隙間、あるのかな。
 ないなら……なくたって、開けるつもりではいるけど。
「オレ、絶対にを守るよ。だから、無茶はしないで」
もね」



 また、急に目の前の風景が変わった。
 今度は、今までと明らかに違っていた。
 大地から煙が立ち上り、人がばたばたと倒れている。
「なん……なんだよ、これ……」
 怒号が響き渡る平野らしき場所に、おれは立っていた。
 近くで、の声がした――被害を拡大させるな、と。


2013・3・24