互国響動 43 ―紋章の世界―



 の生まれ故郷へ行ってみたい。
 ユーリがそう言い出したのは、市街で夕食を摂った後だった。
「……ユーリ、しかし」
 余り気乗りしていなさそうなコンラッドとは対照的に、彼の主は意見を引っ込めるつもりはなく。
 幾つもの街灯の灯る明るい路を、城に向かって歩きながら、は唸る。
「トランかあ。歩くと大変だよ? 魔物も出るし」
「ユーリ。こちらに疎い我々が、余り外出をするのは……」
 真剣な表情で諭すコンラッド。
 でもやはり、ユーリの気持ちは変わらない。
 それどころか、
「なんだよコンラッド。の故郷を見たくないのかよー」
 引き込みにかかった。
 コンラッドが言葉に詰まる。
 彼もまた、彼女の故郷を見たいという気持ちがあるのだろう。
 本当に危険な場所なら、ユーリが何を言っても、問答無用で切り捨てられるからだ。
 こちらの事情に疎いせいで、判断がつかないのかも知れないけれど。
 難しい顔をしていた名付け親は、に視線を向けた。
「危険は?」
「うーん……まあ普通は護衛がいないと。山賊とかトラとか出るし」
「ト、トラ!?」
 ユーリの顔が引きつった。
 山賊は予想の範疇だから、まだいい。
 ――けど。トラって、あのトラ!? シマ模様の!?
 トラは、ユーリの認識ではサファリパークや動物園にいるもので、人とは隔離されるべきものだ。
 または、どこか自然いっぱいの大地で、縦横無尽に走り回るものだ。
 いやしかし。こちらの『トラ』が、あの『トラ』でない可能性もある。
「な、なあ、トラって……どんなの?」
「大きいのだと、たぶん、立ったらコンラッドの身長ぐらいかも。牙があって、シマ模様で……肉食」
 淡い期待を打ち砕いて、普通にトラでした。
 危険のない方法で行き来できないのかと問うコンラッドに、は暫し顎下に手をやって考えている。
 かと思えば、ぽん、と手を叩いた。
「そうだよ。ルックがいるんだから、彼に送り迎えを頼めばいいんだ」
「……ルック、頼まれてくれるかなぁ」
 そんなに長く一緒にいないにしろ、あの少年紋章師の人となりは、なんとなく解ってきている。
 一言で表すなら『面倒くさがり』だ。
 ただ、頼まれごとには基本的に弱い気がするから、一生懸命お願いすれば、手助けをしてくれるかも。
 ――おれが言っても、多分駄目だろうけど。
 は笑んだ。
「きっと、文句を言いながらやってくれる。城に帰ったら私が話をつけておくから。多分、も行くだろうし……後は私とユーリか」
「俺も行きますよ。折角のの祖国だ。見ないなんて、そんな勿体無いことはできない」
 反対しなくなったコンラッドが、爽やかな笑みつきで言った。



 城に戻り、ユーリたちが部屋に戻るためにエレベータに乗ったのを見送り、は目的の人物を探し始めた。
 探す人物――ルックは、以前は『宿星』と呼ばれるもの達の名が穿たれている石版の管理者だったため、たいていそれが置かれた大広間に居たが、今は石版自体がこの城にない。
 となると、部屋だろう。
 辺りをつけてルックの部屋の戸をノックする。
 面倒くさそうな声が戻ってきてから、は中に入った。
 時間があればいつもそうしているように、彼は分厚い本を読んでいた。
 彼は肩眉を上げてを見る。
「なんか用事?」
「うん。あのね、ユーリたちを連れて、トランに行きたいの」
「行けば」
 視線を本に戻しながらあっさり言うルックに、は苦笑する。
 彼は、こちらが言うことを最初から分かっていて、それでも尚この態度なのだと知っているから。
 は彼の呼んでいる本を取り上げ、ぱむ、と閉じる。
 ルックは物凄く嫌そうな顔をして、ため息をついた。
「……僕を使おうっていうんだろ。分かってるよ」
「ビッキーが居れば、彼女にお願いするんだけど……いないし」
 が眞魔国に飛んだのは、ビッキーのテレポートの失敗が原因だった。
 だが彼が戻ってきた時、既に彼女はどこかへ行ってしまっていたらしい。
 机に肘をつき、ルックはの手から本を取り返す。
 読む気はないのか、閉じられたまま机上に置かれた。
「僕は余り外に出たくないんだよ。分かるだろ」
 瞳を伏せるルック。
 は頷いた。
 彼が、デュナンの国境を越えた先、グラスランドという国で戦を起こしたことは、まだ色濃い事実だ。
 たとえそれが、この世界の、定められた未来を変えるためだったとしても、戦は戦。
「真の紋章が見せる、終末の世界。無の世界――あれを変えるために、僕は手酷いことを多くこなした。は僕を受け入れてくれてるが、他がそうとは限らない」
 第一、デュナン国内にだって、自分を快く思わない人間はかなり居るだろうと、ルックは息をついた。
 それは確かにその通りで、だからは否定しない。
 そんなことないよと言ってみても、事実が伴っていなければ胡散臭いだけだし、彼は適当な誤魔化しの言葉など望みはしないだろうから。
「出来る限り、人目を避けておいた方がいいんだ。……なのに、トランになんて行ったら」
「まあ……放っておかない人種が、ごろごろ居るだろうね」
 トランには、を『坊ちゃん』と呼ぶお人好しの従者を筆頭に、癖の強いのが揃っている。
 静かに独りで居ることなど、恐らく不可能だろう。
 あることないこと訊かれるに決まっている。
 でも。
「……でも、そこをなんとかお願い」
 両手を合わせて何度もお願いする。
 最初こそ渋っていたルックだったが、何度目かの『お願い』で折れた。
 彼もと同様、の『お願い』に弱い。
「分かった、分かったよ! けど、僕の真の風の紋章は本調子じゃないんだから、何が起こっても文句言わないでよね」
「うん、言わないよ。ありがとう!」
 目いっぱいの笑顔を向けるから、ルックは顔を逸らした。
 額に手をやり、目を閉じている。
「……ルック? 気分でも悪いの??」
「君ね、あんまりそういう顔を、卑猥男やへたれ魔王にしないように」
「は?」
 へたれ魔王は失礼ながらユーリだろう。
 でも卑猥男って。
「……もしかして、コンラッドのこと?」
「他に誰がいるんだ。いいかい、あいつが襲ってきたら、容赦なく紋章で撃退しなよ」
「いや、コンラッド大人だし、そんなことにはならないかと……」
「甘い」
 ずばっと切り捨てられた……。
 ルックの中でのコンラッドの認識が、色濃く分かった瞬間だった。



 翌日。
 のお願いに負けてしまったルックは、ぶつぶつ文句を言いながら、それでもきちんと全員をトランへと移動させた。
 出た先はマクドール家の門前。
 ユーリは自分の立っている場所が、先ほどとはまるで違うことに驚いた。
 ルックの力での移動にあるのは、少しの浮遊感だけだ。
 スターツアーズがなく移動するのには、どうにも慣れそうにない。
 かといってスタツアに慣れているわけでもないが。
 整えられた街並みに見入っているユーリの横で、に声をかける。
「どうする? やっぱり先に家に戻って事情を話した方が――」
「坊ちゃん! ちゃん!!」
 突然扉が開き、金髪の男性がに向かって突貫してきた。
「う、うわっ、なんだこの人!」
 思わず後ろに下がるユーリ。
 金髪の男性は、顔を感激でぐちゃぐちゃにしながら、何度もを抱擁している。
 ギュンターみたいだと、ユーリは少し思った。男性は汁だらけになっていないが。
 が抱き締められる度に、隣に立つコンラッドが少しばかり不機嫌になっている気がする。
 ――感動の再会っぽいんだから、こんな時ぐらいは嫉妬するなよと言ってやりたい。
 が失笑しながら、男性の肩を押した。
「ただいま、グレミオ」
「ただいま」
 の言葉に、男性――グレミオは、割れんばかりの笑顔を向けた。
「お帰りなさい、坊ちゃん、ちゃん。ルックくんも」
 その『お帰りなさい』が余りにも嬉しそうだったから。ユーリは少々涙ぐみそうになってしまった。


2009・12・6