互国響動 38



 がその場に着いたとき、全ては終わっていた。
 誰も居ない場所で立っているのその周囲には、強力な魔力の残滓。
 そして、黒い灰のようなものが舞っていた。
 は、それが何かを知っている。
 それが何を意味しているのかを、知っている。
……っ」
……悪いが、少し力を貸してくれ」
 彼は右手を抑えながら、苦しそうに眉を寄せている。
 右手の紋章から、闇が薄く流れている。
 の足元に生えていた草は、彼を中心として枯れていた。
 何が起こったか知らないが、とにかく拙い。
「どうして……ああ、そんな場合じゃない」
 は紫魂の紋章に意識を向け、彼のそれと同調させるように努めながら、の手を握った。
 途端、全身に痺れが走る。
 人を喰らって勢いづいた生と死の紋章は、まだ足りないと叫んでいる。
 魂を寄越せと、吼えていた。
「使ったんだね」
「ああ。……ユーリを狙っていた奴らにね。彼らの依頼主に、オレやのことを詳しく言われては困るからな。……耳障りな言葉で、オレと紋章がキレたせいもあるが」
 は苦し気に息を吐く。
「狙った奴らは、シマロンの貴族とやらに頼まれたようだ。代理人名はエオ」
「調べてみれば、後ろが判るかな」
「さてな……」
「とにかく、紋章を落ち着かせよう。今、やるから」
 暴れ猛る紋章に、は自分の紋章を繋げた。
 闇色のそれに覆い被さる、紫の力。
 愛しき眷属を感じ取った生と死の紋章は、猛烈な勢いで――紫魂を求め始める。
 それは決して、の魂を掠め取ったりはしない。
 だがの暴れるそれの、所謂愛情は、を時折ひどく疲弊させる。
 全身を闇に撫で回され、魂の奥底を侵され続けるようなものだから。
 紋章が荒れておらず、優しい時はいいのだけれど。
 こうして荒いと、訳のわからない波に浚われてしまいそうになる。
 助けになるのは、現実の、の手の暖かさだけだ。
 それが、の意識を奪わせず、ここに身体があることを思い出させてくれる。
 最初の頃、まだ紋章の闇に応じることに慣れていない頃なんかは、何度気絶したか判らない。
「ぅ……っ」
 身体の奥を引っ掻き回されるような感覚に、は思わず呻く。
 右手から走ってくる痺れが、疼痛に変わった。
 いつもと違う。
 紋章はの魔力の中の何かを、嫉妬したみたいに、執拗に引っかいている。
 は慌てて手を引こうとしたが、紋章の引き合いが強く、剥がれない。
……お前の魔力じゃないものが、ある」
「たぶんっ……ユーリのだと、思う……。昨日、倒れた時に、分けてくれたんだと……」
「それでか? 剥がれない……っ。大丈夫か?」
 倒れかかり、に受け止められた。
 右手だけは互いに離さない。
「ごめ……だいじょぶ……」
 荒い息を押し隠そうと、息を極力しないように努める。
 全身を実際に舐められている感じがして、身体が変な反応を起こしそうだ。
 は紋章の力を抑えながら、堪えているの頬が上気しているのを見て取った。
「……いい加減にしろ」
 にではなく、紋章への言葉。
 怒りの混じった声に、を見つめる。
 声を出せば吐息になりそうで、何も言えない。
 明らかに気分を害しているは、真の紋章の制御を強める。
 の補助があって、彼は労なく、紋章の力を締め上げている。
「オレの目の前でを蹂躙して、それで済むと思うのか。――引っ込め!」
 生と死の紋章は、の怒気に押されてか、から力を引く。
 2、3度明滅し、落ち着いた。
 細い息を吐くを、は抱きしめる。
「大丈夫か?」
「び、びっくりしたよ……。今までこんなの、なかったし……」
「恐らく、こちらにはオレたちの世界に属す魔力が少ないからだろうが、かなりの魔力に貧欲だな。――それから、ユーリの魔力に嫉妬してる節がある。まるで人間みたいだ」
 やれやれとため息をつくは、力の入りきっていないを自分の胸にもたれさせ、頭を撫でる。
「……本当に大丈夫か?」
「うん、落ち着いてきた。それよりは大丈夫? かなり無理したでしょ」
 しっかり立ち、を見ると、彼の顔色は少しばかり悪い。
 やっぱり、無理したみたいだ。
「少し休んだ方がいいよ。宿に戻ろう。ユーリはユーリで、色々大変なことになってるけど……」
 を横にさせた後で、手伝いに行って来ようか。
 思っていると、彼はの考えていることが判ったらしい。
 歓迎しないとばかりに、肩をすくめた。
「聡い奴がいるからな……。あまり、今の状態の君を奴らの前に出したくないんだが……」
 奴らって……。
 だいたい今の状態と言われても。何か問題があるのだろうか。
 首を傾げ、自分を見回してみるが、変なところはない。
 失笑し、の頬に手を触れた。
「まだ、顔が少しばかり赤い。全力疾走しました、って言っても、妙に色気があるんじゃな」
「は?」
 色気なんてございませんですよ。
 常時、欠片もないです。
 怪訝な顔をすると、彼はくすくす笑い出す。
「なんだ? 自分で気付いてないのか。まあ、だし。仕方がないか」
「……なんだか、妙に馬鹿にされた気分なんだけど」
 むーと眉をひそめる。
 彼は柔らかく微笑み、の頬を撫でた。
 ひくんと身体が動く。
?」
「……なんでもないよ」
 それ以上は何も言わず、は彼に手を引かれ、歩き出した。
 ――とにかく、紋章がちゃんと鎮まってよかった。



 結局、は宿に戻らず、と共に火事場の手助けをすることになった。
 も手伝うと言って聞かなかったせいだ。
 も、負傷者の手当ての手助けだ。
 は暴れる娘を宥めながら、容赦なく手当てをしている。
 はというと、さすがにの紋章と通じた後では、紋章での治療が簡単ではない。
 使おうとすると疼痛がひどくなり、なかなか集中できなかった。
 魔術ですよー、と誤魔化して使ってはいるが、威力は8割減。
 よって、すばらしく時間がかかる。
 数名の手当てを終えたところで、ユーリに声をかけられた。
、どこ行ってたんだ?」
「ちょっとを探して……ってユーリ、顔色悪いよ」
「ああ、魔力の使いすぎみたいだ。普段は上様モードになった後、一昼夜は寝るから……つまり寝不足っていう話もある」
 なるほど。
「無理しないでね。倒れるとコンラッドが焦るし、ヴォルフラムが姦(かしま)しいし、ギュンターは汁を飛ばすよ」
「ギュンギュンはここには居ないけどな」
 軽口を叩いて、右手の疼痛を何とか振り払いながら、次の治療をしようとした。
 指が負傷者の患部に触れる直前、コンラッドの声がして、振り向いた。
 見れば彼の横に、赤い髪の女性が立っている。
 誰?
「ああ、コンラッド。アニシナも」
 ユーリに『アニシナ』と呼ばれた女性は、赤毛を高く上げた水色の瞳の女性。
 彼女はずんずん歩いて、の前に立った。
 治療のために膝を折っているは、彼女を見上げる格好だ。
「貴方が噂のですか」
「噂のかどうかは知らないけど、です」
 女性はにっこり……いや、ニヤリと笑う。
「わたくしはフォンカーベルニコフ卿アニシナです。お会いできて光栄です」
「は……ええと、こちらこそ」
 握手を求められ、手を握った。
 不敵な笑みがちょっと怖い。綺麗だから余計に。
「どうです。わたくしと、この世界の男どもを叩きなおしてみませんか?」
 いきなり仲間になりませんかと言われても。
 しかも、男どもって。
「あなたのように逞しい女性の生き方を、是非、世界に広めたいのです」
「ああ、ええと……別に逞しく生きてるわけでは」
「魔力も相当なものをお持ちのようですし。『もにたあ』になって頂くでも可!」
 も、もにたあ?
 説明を求めてコンラッドを見るが、彼は肩をすくめるだけ。
 ユーリに関しては、首を振るだけで一向に要領を得ない。
「ルックという少年にも助力を願い出ましたが、用事があるとかで協力を得られませんでした。次回は協力して欲しいものです」
 ……つまり、ルックが逃げ出す類のことなのか。
 身の危険を感じ、は上手い言葉を捜して思考を廻らせる。
 何も出てこなくて困った顔をしていたら、
「それよりアニシナ。少女たちの治療はどうなってる?」
 コンラッドが助け舟を出してくれた。
「重傷者は大体治療済みです。あとは人間の医師でも問題ないでしょう。ウェラー卿も、魔力がないからと手抜きをせず、もっとテキパキ働けば宜しい」
 うんわぁ……痛烈……。
 言われた方は、いつもと変わらない笑みだ。大人だなあ。
「それでは。またお会いしましょう。あなたが一日も早く陛下の妻となり、女性による女性のための政治を始めることを願います」
 言い放ち、颯爽と彼女は去っていく。
 格好いいが、無茶なことを言っていたなあと、は苦笑した。
「ところでと何をしていたんだい?」
「……ううん、別になんでもないよ」
 上手い回避方法じゃない。
 けれどユーリが居る場で、本当のことなんてとても言えず、は言葉を濁した。
 コンラッドの指が、の耳朶に触れる。
 先ほど紋章に撫で回された感触が蘇り、目をつぶって息を呑んだ。
「何も、ね」
 声が冷えてる。ちょっと怖い。
 片目を開けてコンラッドを見れば、彼はやっぱり笑顔で、でも笑顔じゃない。
 ――ごっ、ごめんなさい。
 訳もわからず、心の中で謝った。



 後、ユーリは最初の予定通り、たっぷりと湯治につとめた。
 グレタは実は廃国になったゾラシアの、唯一の生き残りで、しかもお姫様だったと判明。
 ヒスクライフの進言で、彼女は暫く人間の土地で教育されることになった。
 ゆくゆくは、魔族と人間の掛け橋になってもらうために。
 しばしの別れの時、グレタはにこう言った。

は、グレタのお母さまになってくれる?」
「え? でもヴォルフラムがお母さんじゃないの。金髪美人な母親」
「ユーリとヴォルフラムはお父さまだよ」
 お母様という、立派な職業にはつけないと思うんだけど。
 困惑する
 グレタは強い瞳で彼女を見続ける。
「……そうだね。ちゃんとしたお母さんにはなれないけど、グレタが望むなら」

 グレタはひどく喜んで、に抱きついた。
 お父さんユーリ、後ろでちょっとジェラシー。


 歓楽郷から出立し、眞魔国まで後1日という航路まで来た頃。
 は床に入って眠ろうとした折、ノックの音で身体を起こした。
 常の習慣で武器を手に取るが、声を聞いて肩の力を抜く。
「ユーリ、どうし……って、魔王の方?」
 いつもの雰囲気ではないユーリだったから、すぐに察した。
「入らせてもらうぞ」
 問答無用だ。さすが上様。
 は軽く息をつき、扉を閉めた。
「それで?」
「我が国へ着いた後、一度故郷へ帰るがよい」
「……いったい、どういう心境の変化で?」
 魔王は苦々しい顔だ。本意ではないことが窺える。
「急な引き寄せのため、お主の魔力とこちらの魔力が上手く噛み合わんようだ。慣らすためにもあちらへ戻らねば」
 は、一応納得しながら、不敵な笑みを浮かべた。
「帰ってこないかもよ」
「案ずるな。余はお前を手放さぬ」
 是非、手放してください。
「よいか。例の布を使うがよい。ただし、余を連れ往くよう、きつく申し渡す」
「……ユーリを、つれてくの?」
 そんな事が出来るんだろうか。魔王ならできるのか?
 いや、眞王??
「うむ。例の小生意気なルックンとやらに命じ、行くがよい」
「あ、ちょ……」
 ふぅ、と雰囲気が抜け落ちる。
 残ったのは、眠ったユーリ。
 ――何を考えているんだろう? そもそも魔王ってユーリの裏の部分だよね? なんで『ユーリ』が知らないことを知ってるんだろう。
 いろいろなことが判らなくて、は深いため息を落とした。




2009・6・4