互国響動 37 起きて。あなたを必要としている人がいるの。 寝ているはずだと、私はどこかで思う。 聞こえてくる声に覚えなんて全くなくて、なのに何処かで声の主に会っている気もする。 あなたは誰ですかと訊いてみても、答えはない。 微笑む気配だけが伝わってくる。 起きてと優しく囁く女性の声に観念したのか、私の意識は急浮上した。 目覚めて、最初に感じたのは右手の疼き。 けれどそれは、すぐさま消えてしまった。 周囲を見回す。誰の姿も見当たらないし、気配もしなかった。 外を見れば、すでに昼をとっくに越えている位置に太陽がある。 「……レース、どうなったんだろう」 熟睡でもしていたのか、起こされなかったみたいだ。 または、起こされたけど起きなかったか。 ユーリが賞品の賭け事である、『珍獣レース』だが、コンラッドもヴォルフラムもいるから、滅多なことにはならないだろう。 負けても、まあなんとかする気がする。コンラッドなら。 私は置き抜けでぼうっとする頭を振り、手櫛で髪を適当に整え、いつもの髪型に結ぶ。 その折、焦げ臭い香りが鼻をついた。 眉をひそめながら、窓の外を見る。 「……火事?」 ビロン有する西地区の一角から、風が焦げ付いた匂いを運んできている。 朱色の炎がちらりと見えた。それは館を舐めている。 理由はわからないけど、娼館が燃えていることは間違いなくて、私は腰に武器を携え、走り出した。 大勢の人の前で、紋章なんて使えるはずがない。 でも、何かができるかも。 私が到着したとき、何が起こったのか、ユーリが宙に浮いていた。 彼が『魔王』になっていると、すぐさま気付く。 唖然とする私の目の前で、魔王は地面から吹き出る水……じゃない、お湯で、水龍を作り出していた。 「」 コンラッドがこちらに気付いて、手を招く。 駆け寄って、ざっと事情を聞いた。 「じゃあ、ビロンの莫迦が賭けに負けて、腹いせ的に娼館を燃やしたっていうこと?」 「そう。それでユーリがあの通り」 ユーリの魔力で作り上げられた水龍は、あっという間に館の火を消し止める。 これなら、紋章を使う必要はなさそうだ。ホッとした。 魔王は自らの足の下に温泉マークを魔力で書き入れて、唐突に力を失った。 やんわりと落ちてくる彼を、私は反射的に走って受け止める。 うっ……腕がいたい。 鍛えていても、やっぱり基本的には女の腕だ。 無理したかも。 「、それは男がすることだろう」 ヴォルフラムが呆れたように言い、コンラッドが失笑している。 仕方がないじゃなない。つい、身体が動いちゃったんだもん。 彼を地面に横たえさせようとして、ヴォルフラムがどっかと――正座をし、ばんばんと自分の足をたたいた。 「枕になってやるから、そいつの頭を寄越せ」 それって、どっちかっていうと女の子の役目では? まあ彼は婚約者だしいいかと、勝手に納得。 ユーリの頭を、そっとヴォルフラムの膝に乗せて、息をついた。 「随分と疲弊してるね……」 「普段眠っている魔力を、一気に放出するからだろう。たいてい、魔王化した後のユーリは、丸1日は寝てる」 コンラッドが言う。 でも確か、私の前に現れた時は、すぐユーリに切り替わったけど。 首を傾げる。 疑問に答えるように、コンラッドは言葉を続けた。 「魔力を放出した時と、そうでない時では、やっぱり疲労度が違うんだろうな」 「ああ、なるほど」 にしても。 夢の中に出てきた声は、私に誰を助けて欲しかったんだろう。 たかが夢だが、されど夢。 疲労したユーリを、回復させて欲しいとか、そういうことだったんだろうか。 判らないけれど、彼を放置しておくのも悪い気がする。 大事なときに、宿屋でぐーぐー寝ていたんだから。 「コンラッド、ちょっと周りを気にしてて」 「? まさか陛下に紋章を使うつもりか」 そうだけどと視線で告げれば、険しい顔をされた。 どうしたんだろうと思いつつ左手をユーリの身体に触れさせようとして、手を取られた。 「ちょっと、コンラッド……邪魔してどうするの」 「昨日、ヒューブに力を使って、自分がどうなったか解っているだろう」 「解ってる。……大丈夫だよ。少しだから。ゲーゲンヒューバーみたいに、酷いものを治すんじゃない。魔力を送り込む程度」 王を第一に考える臣下のコンラッドからしたら、王を治すのになんの問題もないはずだ。 ユーリの命は、私のそれよりもずっと重い。 少なくとも、彼にとってはそのはずだ。 コンラッドは、私が治療の危険性を理解していると納得し、手を離した。 左手の甲を、右手で抑え、力を放つ。 こめかみにチリッとした痛みが走るが、無視。 魔族に、私の魔力がきちんと作用するかわからないけど。 力の使いすぎなら、渡してあげればちょっとは回復も早いだろう。 さすがに、右手の真の眷属を介して、力を与えるなんて怖くてできないけども。 ヴォルフラムがユーリの顔を見て、鼻を鳴らす。 「……ユーリの顔色が、だいぶ良くなったな。、充分だ。お前のためにもやめておけ」 「うん……そうす……ッ」 言葉が最後まで言えなかった。 言えないほどの痺れが、右手に走ったから。 「?」 コンラッドの声に返事ができない。 右手の甲――紫魂の紋章が、のそれに反応してる。 「……。は、はどこ?」 焦ってコンラッドとヴォルフラムに訊くが、彼らは昨日からを見ていないらしい。 知らず、冷や汗が背中を伝う。 ――紋章が、人を喰らおうとしてる。 それも、死にかけの誰かじゃない。 まだ生命活動の弱っていない、誰かを喰らおうとしてる。 誰を、何故? ――そんなことを言ってる場合じゃ、ない。 相手が誰であれ、人の命を奪い取るような強い力を発するなら、私が傍にいたほうが良い。 たとえ抑えが効かなくなったとしても、私の紋章でなんとかできる。 はそれを知ってるはずなのに! 「私、のところへ行って来る!」 駆け出す私の背中に、コンラッドの声がかかるけど、待っていられなかった。 紋章が導くままに、走る。 歓楽郷から少し離れた、手入れのされていない森の近く。 打ち捨てられたのような、うらぶれた小屋の前に、はいた。 目の前には男が3人あって、どの男も警戒心を顕わにし、それぞれに武器を所持している。 やっと全員が揃ってくれたと、手にした棍を振る。 「全く、面倒をかけてくれるな。もっと早く襲ってくれたら、話は早かったんだが」 は昨晩から、ずっと独りで行動をしていた。 情報が錯綜しているのか、男たちはユーリとのどちらが『魔王』なのか、判断がついていないようだった。 正直言って、ユーリと、どちらが魔王らしいかと問われればの方だ。 だから事実確認も含めて、に多く張り付いていたのだろう。 彼らは間抜けにも、ビロン邸で起こっていることを知らなかった。 本物の『魔王』があちらにいると気付いたのは、珍獣レースが始まる直前で、伝令として焦り戻った3人のうちの1人を追って、はここにいるのだった。 基本的にはゴロツキらしいこの者たちは、隠密行動に全く慣れていないらしい。 こいつらも金を貰って、暗殺だか誘拐だか、分不相応なものに手を出したクチかと、ため息を吐いた。 「く、くそ……。おいガキ、今なら見逃してやるから、さっさと退け!」 「3人対1人じゃあ、分が悪ぃってのは、脳味噌が多少緩んでても判るだろ?」 下品な笑いを張り付かせている男の武器はどう見ても鉈で、切れ味が悪そうだ。手入れぐらいしろ。 男らは、それ以上の会話をせずに、にそれぞれの武器で害をなしにかかった。 は軽く息を吐きながら、棍を動かす。 男のひとりの後頭部を棍で打ちつけ、もうひとりを蹴り飛ばした。 残るひとり――恐らく立場が一番上であろう赤茶毛の男――の眼前に、棍の先を突きつける。 瞳には、まだ闘争心がある。 ただし手は大きく震えていた。 の後ろで、先ほどやられた2人がうめき声を上げ、起き上がる。 背後から襲い掛かられても、全く問題にならない強さだったから、背を向けたまま、は棍の先にいる男を、ひたと見据えた。 男は明らかな実力の差を感じて、額に汗を浮かせている。 それでも右手の剣は離さない。 戦意はまだある。 「聞かせてもらおう。魔王を狙っているのは誰だ」 「言うものか」 精一杯の反抗か、男は引き攣った笑みを浮かべている。 「随分と勇気があるんだな」 「あ、当たり前だ。おれたちは仕事を請けたんだ。実力も残忍さも備えていると認められてな!」 男は、自分の緊張がそれでほぐれるのだとでも言わんばかりに、己等が今までしてきた悪事を喋り出した。 放火して金品を強奪しただの、人を幾人手にかけただの。 命を奪った中に女子供は何人いて、どんな方法で屠っただの。 胸くその悪くなるような言葉を、呪詛のように延々と垂れ流す男の高揚した目を見て、は目をきつく細める。 口だけならばいいが、そうではなさそうだった。 一線を越えてしまった者の目がそこにあって、は自然、棍を握る手に力を込める。 「魔王の側にいるっていう王妃も、ついでにさらってヤっちまうさ。魔族でも女だからな!」 紋章が脈打つ。 王妃――に害意を成す者として、紋章が怒りを放っている。 「……黙れ」 「黙るのはお前だ! 今から仲間になるなら、お前にも王妃をヤらしてやるよ、どうだ? 魔王を売った金もくれてやる」 「黙れと、言っている」 「凄んだって怖かねえよ! 死ぬのだって怖かねえんだおれ等はよぉ! 一度狙った相手は、誰であろうが必ず――」 正面の男の言葉が終わらぬうちに、後ろにいた男の1人が攻撃をしかけて来た。 の右手の甲が、危険を――否、獲物を察知して、獰猛な光を放つ。 紋章は闇色の力を、攻撃を仕掛けてきた男に向けた。 力は攻撃を試みた男だけでなく、もう1人、様子を窺っていた者にもに襲いかかり、発した時と同様、唐突に引き戻った。 不思議そうに見つめる男の目の前で、彼の仲間は地面に膝をつく。 虚空を見つめたまま、どちらもまるで物体のように平伏した。 倒れ、ぴくりとも動かない。 は舌打ちする。 ――最近、魂を喰わせていなかったせいか。が側に居てさえ、この紋章は貪欲だ。 紋章は食事を悦びながらも、更なる贄を求めて脈動している。 赤茶毛の男は、目を落とさんばかりに見開き、命を感じられない仲間たちを凝視していた。 「……お、おい……? あいつらに何をしたんだ」 「何を? お前が恐れないと言ったことをしただけだ」 「な、に……」 怖れないと言ったものを見せ付けられ、男の体がはっきり震える。 戦いではなく、得体の知れない何かに命を浚われた者たちを目の前で見て、明らかな恐怖を覚えていた。 「お、お前っ、何者だ!? 魔王ではないんだろう!!」 「質問をするのはこちらだ」 すぅ、との瞳が細められる。 温度が全く感じられない、冷たい瞳。 闇を灯したそれに直視され、男は掠れ、引きつった息を吐き出した。 「た、助けてくれっ」 「言え。魔王を狙っているのは誰だ」 「シ、シマロンの貴族だ! 名は知らんっ。お、おれたちは代理人だという奴の手紙を通して、仕事をしているだけだ!」 「代理人の名前は」 「エ……エオだ。確かそういう名だった」 「そうか」 は棍の先を、男から退けた――途端、男は未だ震える手で持っていた剣を、に向けて振りかざした。 男の目には、理解できないものへの恐怖しかない。 仕事がどうとか、そんなものは、もう関係がなくなっていた。 彼にとっては未知なるもので、怖れの対象でしかなかった。魔族だという以上の恐怖。実際は魔族ではないのだが。 「うわああぁぁあ!! しっ、死んでくれ!」 力を込めすぎて、素早さがない攻撃は、あっさりとに避けられた。 ガッと音がして、剣の先が地面に叩きつけられる。 再度振りかざそうとした剣は、しかし持ち上がらなかった。 持ち上げるための力が、男の腕には残されていなかったからだ。 「あ……?」 男の視界が、ぐるりと反転する。 仰向けに倒れている自覚は、当人にはなかった。 はため息をつきつつ、男の前に立つ。 右手の紋章が、闇色を濃くしていた。 「オレが何者かと訊いたな?」 男は動かない。 まだ意識はあるらしいが、目は虚空を彷徨っている。 今ある意識も、急激に欠けていくだろう。 紋章が、味わうようにしてこの悪人を貪り喰っているのが判る。 聞こえているのかいないのか判らない男に、の口唇は孤を描いた。 「オレは――死神だよ」 男の目が見開かれる。 そうして、そのまま動かなくなった。 は笑みを消し、額に手をやって頭を振った。 そして決断する。 この男たちを、このままにしておけない。 誰に見つかるとも知れないし、万が一、ユーリの目に触れたら事だ。 暗澹たる部分は、知らない方がいい。あの魔王は、特に。 だから――。 もっと喰わせろと喧しい紋章に、意識を集中する。 右手の紋章は喜び勇み、闇色の力を迸らせている。 「……生と死の紋章、ソウルイーターよ。容(かたち)も残さず喰らってしまえ」 2009・6・2 |