互国響動 36 どすん、と音がした。 音を立てたもの――男は仰向けで倒れていて、腹部からとめどなく生命を流していた。 男の腹を抉った剣を一振りし、コンラッドはユーリに注意を呼びかける。 「近づいては駄目だ、ユーリ。こいつはまだ生きているし、魔術もかなり使える」 だから安全のために近づくなと、強い口調で言った。 ユーリとグレタは、ヒスクライフという人と一緒に、ルイ・ビロンなる極悪人(偏見が入っているとも言えなくないが、私の中では悪人だ)と会っていた。 ビロンは、この土地の西側の権利所有者。 つまり彼が部下に命じて、ニナやイズラのような少女を買ってこさせて、娼婦の仕事をさせている。 ヒスクライフ氏は南側の温泉街の所持者で、西地区のあまりの惨状に、ユーリを伴ってビロンに抗議しに来たのだという。 なんでユーリを、と思ったが、以前ヒスクライフ氏を助けて後、尊敬されているのだそうな。 部屋に入って然程の時間ではなかった。 唐突に、部屋の端にいた虚無僧がユーリに斬りかかって来て――コンラッドが撃退し、冒頭に至る。 戦闘中のびりびりした感じはなりを潜めたが、それでも場の空気は重い。 コンラッドは、切れて血が流れているこめかみを手の甲で拭った。 剣を持っていない左の腕からも、血が流れている。 私は乱暴に彼の手を取った。 「?」 「止血する」 「大丈夫だ。そんなに重症じゃ……」 「怪我に変わりはないよ」 きっぱりと言って睨みつけると、彼は二度瞬き、苦笑した。 それ以上の文句はなく、好きなようにさせる。 イズラの殴られ痕につけたのと同じ傷薬を、思い切り指にとって、コンラッドの傷に塗りつける。 多少は沁みるはずだが、彼は全く表情を変えない。 そうする私の横にいたグレタは、唐突に何かに気付いて、コンラッドに倒された男に駆け寄った。 危ないという暇もない。 少女は泣きそうな声で、彼のものであろう名前を連呼する。 「ヒューブ!」 「グレタ、だめだよ。そいつはおれたちを殺そうと……ヒューブって」 ユーリが声色を驚きに染める。 確か、ヒューブというのは眞魔国側の者だったはずだ。 ギュンターの授業で名前を聞いた覚えがある。 コンラッドは視線をヒューブに向けたまま、 「グリーセラ卿ゲーゲンヒューバー。グウェンダルの母方の従兄弟だよ」 私に注釈を入れてくれる。 彼は、何かを探すためという大義名分で、国外追放になったのではなかったか。 グレタは懐からコインを取りだして、瀕死の男に握らせた。 力の入っていない彼の手は、渡されたそれを握れていない。 意識はあるのだろうか? ユーリは疑問を顔に浮かせたまま、グレタに声をかける。 「なあグレタ。なんでお前がその名を知ってるかわかんねーけど、そいつは別人じゃないかな?」 「いや、彼はゲーゲンヒューバーです」 私の頭の上で、コンラッドがはっきりと告げる。 額にも薬を塗りこみ、彼から離れた。 「剣を合わせれば、直ぐに判る」 ここに居る理由は不明だが、と続けるコンラッドに、ユーリは唖然とした。 コンラッドが、ヒューブを知っていてなおかつ本気で倒したことに驚いている。 「手加減したら……今あそこにああして倒れているのは、俺だったでしょう」 それほどまでの実力者。 けれど今は、負傷者だ。 なんとも言いがたい気分になり、私は倒れている彼を見つめる。 グレタは彼に、必死になって話しかけていた。 「あのね、言われた通りにしたけど、王様は女の人じゃなかったの。でもユーリは凄くいい人で、グレタのこと隠し子だって言ってくれたの」 少女は悲愴な顔をして、 「これ返すから、死んじゃだめ!」 ゲーゲンヒューバーに声をかけ続けた。 重たるい雰囲気。 それを莫迦のような笑い声で割ったのは、ルイ・ビロンだった。 こんな胸の悪くなるような笑い声は、久しぶりに聞いた。 ビロンは、ユーリを示しながら、下品に口を歪ませる。 「賭けの対象が見つかったよ」 ……賭け? 首を傾げる私やヴォルフ、コンラッドを他所に、ビロンは意気揚々とヒスクライフに言い放つ。 「戦利品はミツエモン殿だ。彼ならば西地区の権利書を賭けてもよかろう」 ミツエモンが誰かは知らない。けれどビロンは、明らかにユーリを示して言った。 ――人を、戦利品にするだって!? 荒ぶった気持ちに反応して、右手の紋章が疼く。 露わになったユーリの黒曜石色の瞳を見て、ビロンは高値が付くと踏んだのだろう。 黒色は、高貴な魔族の証。 一部では、それを煎じて飲めば、不老長寿だの、万病に効くだの、胡散臭い効能がしたたかに語られている。 ビロンは思い切りそれを信じているみたいだ。莫迦みたい。 悪徳商人は、反対するヒスクライフに散々噛み付いて喚いた後、身動きをしないゲーゲンヒューバーの頭部を蹴飛ばした。 役に立たない男だと言い放ちながら。 「このっ……!!」 思わず腰の武器に手をやると同時に、ユーリが吼えた。 権利書と『おれ』を賭けて勝負しろと。 ユーリは賭けの対象品となった。 珍獣レースとやらで勝敗を決めるらしい。 緊張感があるんだかないんだか、さっぱりだ。 「……ヒューブ」 グレタが悲しそうな声で、ベッドで横になっているゲーゲンヒューバーを呼ぶ。 コンラッドのベッドに寝ている彼の、反応はまるでなしだ。 ビロンの館から彼を引き連れ、宿まで帰ってきた。 即刻医者に診せたが、彼を診た医師は、今夜が峠だと言っていた。 コンラッドは重症人である彼に、それでもユーリを近づけようとしない。 魔王を護る者としては当たり前だが。 は出かけたきり、まだ戻っていないようだ。 ヴォルフは、何故ゲーゲンヒューバーがユーリを狙ったかについて、ものを考えていた。 「コンラッドとゲーゲンヒューバーの間に遺恨があったとはいえ、反王権派ではなかったはずだが」 私は椅子に座っているユーリの横に立ち、溜息をつく。 「理由はどうあれ、彼は死にたかったみたいだね」 「え?」 ユーリが首を傾げて私を見る。 「確実にそうとは言わない。でも私には、彼が自分を投げ捨てようとしてたみたいに思えた」 彼は、グウェンダルの従兄弟だという。 だったら、コンラッドがどういう相手か知っているはずだ。 剣を交えて無事に済む相手かどうか、知っているはず。 「ユーリを狙えば、コンラッドは本気になるって思ったんじゃないかな」 「おれが魔王だから? あーでも、ゲーゲンヒューバーはツェリ様がまだ魔王やってるって思ってたから、グレタが『女の王様』って……。じゃあなんだ? コンラッドの友人だと思ったからか」 本当のところは判らないけど、きっと違う。 コンラッドにとって、ユーリが大事な人だって、すぐに見抜いたんじゃないかと思う。 なんとなく、そう思った。 「……ヒューブはね」 グレタが小さな音で、言葉を紡ぐ。 「ヒューブは昔、とても悪いことをしたんだって。生きているのが申し訳なくなるぐらい、ひどいこと」 彼には与えられた仕事があったから、それでも、どうにか考えることなく生きてこれた。 昔の記憶は、時が経つに連れて薄れていき、好きな人もできた。 グレタの会話の中に出てくるその好きな人は、今眞魔国にいるニコラという子らしい。 私はまだ会った事がないが、どうも彼らは引き裂かれたみたいだった。 魔族と人間。人種の違いがあるというだけで。 見た目が違うとか、そんなことはなくて、魔族のほうが長寿だというだけなのに。 じゃあ人間ながら不老の私なんて、彼らから見たら化け物か。 失笑する私の指先に、コンラッドが自身の指先を触れさせる。 ……内心に気づいているなら、相当聡い。 指はすぐに離れたが、温みは残っていて、なんだかほっとする。 そんな場合じゃないけど。 コンラッドとゲーゲンヒューバーの間にある遺恨とは、なんだろう。 彼の表情を窺うが、普段と変わらないか、それ以上に涼しげ。 押し隠しているのか、それとも全くなんとも思っていないのか。 個人的には前者だと思う。 「ヒューブはお城の地下牢にいて、ずーっと時間が経つうちに、やっぱり罪を許されてないんだってわかったんだって」 グレタの告白は続く。 子供が口にするには、重たい内容を。 「でも、自分で命を絶とうとすると、夢に女の人が出てきて、まだ死んじゃだめだって。だから自分では死ねなくて――」 「殺してくれる誰かを、探したんだ?」 私の言葉に、少女はこっくりと頷く。 「グレタは抜け道とかを衛兵たちより知ってたから、ヒューブと一緒に城を出たの。途中まで一緒に旅をして……」 それからグレタはユーリの元へ。 彼は、強い人と会えるようにと、別の場所へと向かった。 「自分より腕の立つ相手に斬られるために、用心棒になったんだな……」 ユーリが、やりきれないような様子で言葉を吐く。 「……ユーリ、ヒューブが、ヒューブがだんだん冷たくなってくよ!」 グレタの声は細く、けれどひどく焦っていることを思わせた。 医者をもう一度呼ぼうと言うユーリに、グレタは首を振る。 「ユーリはグレタの熱を治してくれたでしょ!? 二ナの風邪も楽にしてくれた! あの時みたいに、ヒューブも!」 治してくれと懇願する隠し子に、ユーリは腰を上げようとした。 だが、コンラッドは彼の両肩に手を置いて、また椅子に座らせる。 立とうとするユーリだが、彼の力では敵わないのだろう。 つまりコンラッドは、本気でユーリを抑えている。 「駄目ですユーリ。あいつは陛下に刃を向けた」 「だ、だからって」 「ゲーゲーンヒューバーの実力は俺が一番解ってる。危険分子に、あなたを近づける訳にはいかない」 「だけど彼はニコラの婿さんだろ!? 生まれてくる子供の親だろ! それに今は違うリーグでも、元々は同じチームの仲間じゃないか」 元チームメイトが死に掛けているのを黙っていられるほど、あんたは冷酷な男じゃないだろうと訴えるユーリ。 リーグは解らないが、チームは解る。 とにかくユーリは、彼を見捨てたくないんだ。 眞魔国にいる彼の嫁さんのために、生まれてくる子供のために。 けれどコンラッドは、そういう君主の気持ちを一切合財承知していながら、それでも駄目だと強く言う。 いつもは爽やか好青年の彼の瞳が、それと判るほど翳った。 横にいる私でもそう感じるぐらい、雰囲気が冷たい。 「あなたを危険に晒すくらいなら、ヒューブのことは諦めます。俺はそういう男ですよ」 ユーリは言葉を探し、口を開けたり閉じたりしていたが、結局何も言えなかった。 抵抗を止めたのを察して、コンラッドはユーリから手を離す。 こちらは片がついたが、グレタはいよいよ泣き出しそうだ。 壁際によったままのヴォルフラムは、寝不足で充血した目を、男に向けている。 「、のお薬、ヒューブに効くかなあ!?」 ぼろりとグレタの瞳から、大粒の涙がこぼれる。 私はため息を付き、やおら左手を見てから、もう一度息をついた。 「私の薬じゃ到底追いつかない。……ヴォルフラム、癒しの術は使えるの?」 「ぼきゅか。治癒力をあげるぐらいなら、ぼくにだって出来るにきまっているらろ」 眠気で呂律が怪しいが……まあ、術が使えるのなら問題ない。 「、何をするつもりだ?」 コンラッドが眉を潜めて問う。 私は軽く左手を振った。 「ヴォルフラムに治癒力を上げてもらった上で、紋章を使う」 「しかし……」 「ヴォルフラム、お願い」 わかったと言い、金髪の美少年はよたよたとした動きで、ゲーゲンヒューバーに罵詈雑言を投げかけながら、治療を進めた。 私は左手を胸の前に出し、呼気を整える。 「なあ、紋章であっさり全快とか、できんのか?」 ユーリが訊ねてくる。 私は視線を紋章に固定したまま、できないと答えた。 「紋章での強力な回復は、対象者の体力を著しく削る。場合によっては結構な負担になるから――真の意味で『全快』は逆に危険」 死の淵から、強烈な術で呼び戻すことはできる。 けれど呼び戻した直後に、また死んでしまうこともある。 当人の体力が削られ、生命維持ができなくなるほど疲弊していて、掴んだ命を手放してしまう。 紋章の回復とは、そういうものだ。 怪我が大きくなればなるほど、致死率はやはり高い。 上級紋章師――回復に特化している人ならばともかく、独りでは、危険を回避しながら上手く治療してあげられない。 「だから今ヴォルフラムに、手助けしてもらってる」 すぅ、と息を吸い、細く吐く。 左手の甲――流水の紋章――が、輝きを放ち出す。 口の中で詞(ことば)を唱え、ヴォルフラムの術の上からかぶさるように力を載せた。 透き通った青水色の幕が、ゲーゲンヒューバーの体を中心に円を描く。 「う、わ……」 目を瞬くユーリとグレタ。 「………っ……」 びり、と右手に痺れが走る。 紫魂の紋章の先に居る、生と死の紋章が、死に近しい者の魂に反応でもしているらしい。 残念だけど、彼はまだ死なない。 あなたに渡せる魂など、ありはしない。 ゲーゲンヒューバーが苦しげに呻き、そこで私は紋章の力を引いた。 ヴォルフラムも同じようにして、治療を止める。 あれほどまでに大出血していた腹部は、怪我痕は残っていたものの、きちんと塞がっていた。 「すごい、すごいよとヴォルフ!」 グレタが大喜びで微笑むが、私は急激に気だるくなった体を、なんとか直立させている状態だった。 だめだ。なんとか自分のベッドまで戻らないと。 「……失った血は戻ってこないし、傷も残るけど……とにかく、一命は取り留めたから、安心して」 「おい? お前、顔色が悪いらろ」 よろける私を、ヴォルフラムが支える。支えきれてもいなかったが。 ユーリは柳眉を下げて、不安そう。 「どうしたんだよ、ほんとに顔色悪い」 「思ったより、魔族の治療って、力を喰われるみたい……」 ふらふらしながら、扉に手をかけようとしたら、体が宙に浮いた。 何事? 「……は? コンラッド」 彼の顔が目の前にあって、自分が所謂、お姫様抱っこをされているのだと気づいた。 疲労が深くて、赤くなる暇はない。 彼の体温が気持ちよくて、すぐさま眠ってしまいそう。 怪我をしてるのに、申し訳ないなあ。 「連れて行きます。ユーリ、あなたも」 「え、あ、ああ……グレタはどうする?」 少女は首を振った。 ゲーゲンヒューバーの傍に居たいらしい。 私はコンラッドに抱えられたまま、部屋へと戻った。 やんわりとベッドの上に寝かされる。 「……さすが、元王子。爽やかさで人を倒せそう」 「お褒めに預かりまして。冗談はさておき、とにかく休んで」 「ん……」 素直に布団をかぶり、瞳を閉じる。 「ユーリは隣の部屋へ。ヴォルフを呼んできますから、少し待って」 言って、コンラッドは部屋の外へ出て行ったみたいだ。 誰かの手が、額に触れた。 ユーリの手。 「……んぅ、ユーリ?」 「…………すまぬ」 低い、ユーリの声。 ユーリ……? 魔王? 目を開けなければと思うのに、開かない。 触れる指先が心地いい。あったかい。 「一度、お前を帰さねばならぬな……」 なんで、そんなに寂しそうな声を出すんだろう。 思考が纏まらない。 とにかく、眠い。 口唇に柔らかい感触がして、私の奥底に力が灯る。 暖かいなあと思って――意識が途切れた。 2009・4・24 |