は不穏な雰囲気を察して、外を眺める表情を微かに険しくする。
 どこからユーリが湯治に出るという情報が伝わったのかは知らないが、魔王を狙っている輩がいるという情報を得た。
 真偽が怪しい話だったが、このぶんでは間違いなさそうだ。
 ユーリが狙われる。それは即ち、も危険に巻き込まれるという意味に近い。
 眞魔国に肩入れすべき義理はないが、自分の大事な人が傷つくのは避けたい。
 それに。
 きちんと起とうと努力する王を、問答無用で潰そうとする輩は趣味ではない。
 神経を研ぎ澄ませ、場にそぐわない空気を発する者を認識する。
 ――さてどうするか。
 生と死の紋章が、脈打った。



互国響動 34



 グレタが、「人を探す」と唐突に呟き、部屋を出て行こうとしたため、は慌てて彼女を止めた。
「ちょっと待って。独りで行くつもり?」
 無言の肯定。
 扉の取っ手を掴む少女の手の力は、全く緩んでいない。
 は軽く眉をひそめる。
 グレタがこうやって強く主張をすることだから、手伝えればと思う。
 だが出かけるのなら、誰かに言付けしておかねばならないだろう。
 一行の中で、一番ものを分かっているコンラッドは先ほど出かけたようだし(女遊びだったとしても驚かない。だって彼は100を越えた大人だ)も不穏な気配を探って、この場を後にしていた。
 残るはユーリとヴォルフラムだが。
「……じゃあ、グレタ。ユーリに出かけるって言おう? 私が付いていくから」
 彼女はほんの少し、不満のような、不安のような表情を浮かべる。
 けれど間を置くことなく頷いた。
 よし、と彼女の頭を撫でてやり、部屋を出た。

 結果的にユーリも付いてくることになって、3人で夜の歓楽郷を歩いている。
 ヴォルフラムは既にご就寝だそうで、置いてきた。
 親子連れの多い場所でも、さすがに夜ともなれば柄が相当悪くなる。
 ユーリは片手に足保護用の杖を持って、もう片方でグレタと手を繋いで歩いている。
 微妙に居心地の悪そうな顔をしているのは、こういう場所だからだろう。
 はあちこちを旅しているし、こういう手合いの場所も慣れているから、どうとも思わないけれど。
「……なあ。あの女の人」
「んん?」
 ユーリに示されたのは、少々薄暗い道端で蹲っている女性。
 正義感の強い魔王陛下は、彼女が苦しんでいるのが見過ごせないのだろう。
「ああ……具合悪そうだね」
 物凄くあっさりと言うと、ユーリは困惑したようにを見た。
 冷たいなーとか思われただろうか。
 でも、あんな罠の香りがたっぷり含まれた手合いに、あまり関わって欲しくはない。
 それでも、結局ユーリは具合の悪そうな女性に声をかけ、彼女の背を擦ってやった。
 は念のためにと、グレタを抱える。
 それと同時に、柄の悪い男3人が現れた。
 お決まりの、
「おいテメェ、オレの女に何してやがる! 手ぇ出しやがって、ただで済むと思うな!」
 台詞が飛んで来た。
 それぞれ腕っ節が強そうではあるが、戦場を踏んだには敵うまい。
 しかしこんな場所で騒ぎを起こして、変に目立ちたくもない。
 少し脅かして逃げようか――なんて考えていたら、突然、の横から腕が伸びてきた。
 その腕は、ユーリを掴んで引っ張る。
 コンラッドかと思ったけれど、違う。
 もっと細い腕だ。
「こっちよ、早く!」
 促され、はグレタをきちんと抱え直してから、ユーリを掴んだまま全力疾走し始めた声の主を追う。
 薄翠のスリップドレス。茶金色の髪。
 確か、ユーリ(というよりコンラッド?)をナンパした女の子だ。
 思いながら、追っ手をまくために蛇行しながら走る彼女を、とにかく追いかけた。
 5分ほどは走っただろうか。
 路地裏で、決して明るくはない外灯が建っている場所まで来て、やっと足を止めた。
 は息を吐き、整える。
 ユーリはぐったりしていた。
「大丈夫?」
「あぁ、へいき、だけど。は、凄いな……」
 グレタを抱えて走ったにしては、息が上がっていないという意味だろう。
 そりゃあ、積年の訓練の差というものだ。
「ちゃんと撒けたみたいね、よかった。あいつらしつこいから心配だったけど」
 少女はと同じぐらい簡単に息を整え、笑った。
 ユーリは、まだ整いきらない息の上から礼を言う。
「それにしても君、足、速いなあ!」
「子供の頃は走るのが大好きだったの」
 男だったら、手紙を届ける人になりたかったと、夜空を仰ぎながら言った。
 はグレタを地面に下ろしながら尋ねる。
「ねえ、夕方にコンラッドとユーリをナンパした子だよね?」
「そうよ。ああ、平気よ、もう誘わないわ」
 安心してくれていいと軽く手を振る彼女に――彼の正義感がそうさせるんだろう――微妙に説教くさいことを言い出した。
「こんな時間に、そんな露出の多いエッチな服着て歩いてちゃ駄目だって。まだ中学生だろ?」
 チュウガクセイっていうのは、よく解らないけれど、話の全体像は掴める。
 まだ夜更けではないが、確かに少女が独り歩きするには、よろしくない格好だ。
 ただ――ユーリは気付いていないのだろうか。彼女の職業に。
 口を出さず、状況を見守っていると、ユーリは
「どこ住んでんの? 家まで送るよ」
 助けてくれた相手を心配して、そんな申し出をした。
 少女は表情を曇らせる。
「家は遠いから無理よ」
「じゃあ、ナンパした相手の部屋で外泊する気だったんだ?」
「そういうこともあるけど、たいていはお店にいるのよ。前を通ったでしょ」
 ユーリは、援交は良くないとか、にはサッパリ訳の解らないことを言い出す。
 エンコーってなんだろう?
 聞きたくても聞けない雰囲気なのが残念だ。
 ニホンという場所出身の魔王陛下は、『魔』という文字が全く似合わない、正論というか、とても倫理観たっぷりの言葉を、少女に投げかけている。
 曰く、自分を大事にしろとか、愛のないエッチには反対だとか。
 正しいからこそ、少女は朱茶色の瞳を彼に止めているのだろう。
 少女はちょっとだけ苦しそうな目をしていて、は気取られぬように息を吐いた。
 ユーリは見た目からして寒そうな少女に、外套……じゃなくて、ダウンジャケットと言うのだったか。それを渡した。
「なあ、やっぱり家に送ってくよ。一晩店で過ごすなんて、親が心配するし」
 それまでただ黙っていたグレタが、突然身体を縮こまらせる。
 気づいて、ユーリはあわてて言葉を足す。
「お前のことじゃないよ、グレタ」
 無理に送り返したりしないから、安心しろと彼女の頭を撫でた。
 それで多少なりとも安心を覚えたのか、ほ、と小さい息を吐き、緩々と立ち上がった。
「ねえ、あなたの名前は?」
 が問う。
「イズラよ。スヴェレラの末の姫と同じ名前」
 スヴェレラ。
 確か、人間の国の名前だったはず。ユーリが何かを探しに行った国だったと思う。
 法石の採掘場があって、労働環境は劣悪――だったと聞かされていた。
 彼女は家族を置いて、ここヒルドヤードに出稼ぎに来ているのだそうだ。
 言うイズラの瞳は、寂しさと苦悩に歪んでいる。
「……うん?」
 ふいにグレタに手を引かれ、下を見る。
 彼女は、細い道の向こうをじっと見つめていた。
「ユーリ。グレタが何かして欲しいみたい」
「なんだ? グレタ」
「おなかすいた」
 何を見ているのかと思ったら、道の向こうから近づいてきた屋台だった。
 湯気とスープの匂いが近くなる。
 ユーリは、暖簾にある文字をじっと見つめ
「ひご、もっこす……」
「違う。ヒノモコウ」
 グレタに言葉を直されていた。


 ユーリは、イズラにラーメン(というよりスパゲティー)を奢ろうとして、失敗した。
 それは彼が、彼女が娼婦だと気づいていなくて、気づいたら気付いたで、正義感溢れる彼は、売春など続けないほうがいい、店にはもどらないほうがいいと、まくし立ててしまったからだ。
 彼は――イズラのあられもない姿でも想像したのだろうか――顔を赤くしながら、それでも自分の態度か発言かに、思い切り肩を落とした。
 出てきたラーメ……じゃなくてスパゲティーを、ユーリに渡す。
「ほらユーリ。とりあえず食べよう」
「……、おれ」
「話なら食べながらできる。でしょ?」
 言えば、彼は浮かない顔ながらフォークを手に取った。
 それでやっと、料理を見つめるだけだったグレタも、食べる気になったようだ。
 は、グレタと同じお子様サイズのそれを食べる。
「なあ、の国では、その……やっぱり娼婦とか、いるのか?」
「いるよ」
 至極あっさり答える。
「イズラ位の女の子も?」
「法では禁止されてるし、孤児なんかは、少なくともトランとデュナンでは保護を受けられるけど――いない訳じゃない」
 どんなに立派な法が敷かれていても、全員がそれを守るわけではない。
 気付かない、気付けない部分は必ずある。
 薄暗い部分のない国なんてないのだ。
「そうか……」
「平和になったからこそ、人を劣悪な環境から救済するってことに、力が注げるんだけど」
 はイズラの立ち去った方向を、なんとなく見つめた。
 彼女は、が見てきた中では不運ではない方だが、それでも彼女の心痛を思うと顔が歪む。
「……凄く腹が立つよ、ユーリ。ここは平和なのに、ああいう風に少女が苦しめられてる」
「そうだな……」
 はむっつりとした顔で、麺を口にした。




2009・4・4