互国響動 30




 今晩眠れば、目的地につくんだなと思いながら、窓際に座り、ベッドの上にいるグレタを見た。
 散々眠っていたせいだろうか。
 グレタの体調は、もう完璧に近いまでに回復していた。
 会話をするでもなく、ただ布団に顔を半分隠したまま、を見つめ続けている。
 水でも飲むかと聞こうとして、
「失礼、
 ノックの音と、コンラッドの声がした。
 はそちらに顔を向け、小さく返事をした。
 扉を開ける前に、グレタを見る。
 入れても良いかと、扉を指で示して問えば、彼女はぎゅっと眉を引き寄せて、でも頷いた。
「どうしたの?」
「グレタの薬と食事。君のもね」
 片手のトレイに、ちょっとした食事が乗っている。
 は彼を部屋の中に入れて、戸を閉めた。

 彼の持って来た、魚の身をほぐしたものをパンの間に挟んだそれを少しずつ食べながら、
「ヴォルフラムとユーリはどう?」
 コンラッドに訊いた。
 彼は壁に背を寄せ、片手を軽く上げる。
「ヴォルフは相変わらずの船酔い。ユーリはそれに付き合わされてる」
 彼の船酔いは並大抵のものではなく、そりゃあもう、見ているこちらも苦しくなるような酔い方だ。
 グレタを自分の船室に呼び込んだのは、彼が呻って、あっちこっちで吐瀉するせいだった。
 ヴォルフは可哀想だが、グレタにはきちんとした休息が必要だと思ったから。
 もしかしたら紋章を使えば、多少は気分改善になるかも知れない。
 思ったのだが、に反対されてしまった。
 眞魔国ではないのだから、と。
「婚約者の監視に来てヘタってるんじゃ、あんまり意味ないね」
「陸に上がれば回復するさ」
 失笑するコンラッド。
 も苦い笑みを浮かべた。
 2人の様子をじっと見ていたグレタが、ふいに声をかけてきた。
「……
「うん、なぁに?」
は、小さい頃、どんなだった?」
 これまた突然の質問ですこと。
 コンラッドも驚いているのか、銀の散る瞳を瞬かせている。
 グレタは昨日そうしたようにまた、の瞳をじっと見つめている。
 何かを、探して。
「小さい頃、ね」
 どうせ船は明日の朝着く。
 それまで時間はあるのだし、童話の変わりに、自分の昔話でもいいのではないかと思う。
 ただし、の昔話の多くは、子供には少々痛々しいかも知れない。
「俺も聞かせてもらっていいかな?」
 コンラッドが問い、は頷く。
 別に、隠すようなことでもない。
 の中では、それらはとっくに昔の話として処理されているのだから。
「グレタは、何が聞きたい? 質問してくれたら、答えるよ」
 少女はほんの少し考えるように首を傾げ、
「おとうさまやおかあさまは?」
 問う。
「私の父も母も、とても優しい人だったよ。元々はとっても力のある魔法を使う人だったの」
「まほう?」
 本当は魔法ではなくて、紋章術。
 でもそれは重要じゃないから、そのままにしておいた。
「今も、のおとうさまとおかあさまは、元気?」
 元気――だったなら、どんなにか幸せだろう。
 の瞳は物悲しげで、コンラッドは微かに眉を寄せた。
 グレタは、真実を求めている。
 だからも、そのままそっくり答えた。
「2人はね、もう居ないの」
 はっきりと答えた時、グレタは目に見えてビクリと体を震わせた。
 それでも目は、しかとこちらを見つめ続けている。
「悪い人に、遠い所へ連れて行かれた。私はその悪い人に連れられて、皇帝のいる国に行ったの」
「こうて…い? ユーリの国?」
 違う、とグレタに向かって首を振った。
「帝国って呼ばれる所だよ。私はそこの、有名な貴族への『貢物』にされたの」
 子供には重い会話だ。
 だが、グレタは先を望んで言葉を続ける。
「どうして? どうしてがミツギモノにされるの?」
「両親はとても強い力を持ってた。私にもその血が有る。……悪い人はね、その有名な貴族に取り入ろうとしたの」
 コンラッドが深いため息をついた。
「力ある子供を有力者に渡して、保身を図ると? 君の世界では、そういうことが多いのか」
「さあ……? 自分以外に、そういう例は聞いたことがないけど」
 そいつは、の両親を敵視している男だった。
 うだつの上がらない輩で、賄賂を渡して、なんとか帝都で地位を確立しようとしていたらしい。
 そのため、皇帝の覚えめでたいの父親に、を送ったのだ。
 そんな事実を知ったのは、マクドール家に厄介になって、数年経ってからだけれど。
 グレタは泣きそうな顔になっていた。
 は彼女を脅かさないよう、ゆっくりと近づき、グレタの横に座る。
 そぉっと髪を撫ぜてやった。
 嫌がる素振りはない。
、さみしくなかったの? 人をきらいにならなかったの?」
「グレタ」
「しんようしちゃ駄目なんだって、おもわなかったの!?」
 彼女の瞳は必死の色を秘めていて、苦しそうだ。
 とても、覚えのある目。
 いや、グレタのほうがずっと活動的だ。
 自分はぜんぶを諦めていたから。
 は彼女の頭を撫でながら、まっすぐに目を見る。
 ――ああ、グレタは私の中にある、自分と同じ部分を見つめていたんだ。同時に、違う部分を一生懸命探してた。
「私はと一緒に育ったの。って、分かる?」
 グレタは頷く。
「最初はね、やっぱり怖くて、寂しくて、でもしょうがないんだって思ってた。誰も自分を必要としてくれてなくて、きっと自分も、誰も必要としてないんだって」
 必死に笑顔を作りながら、でもたいていは無表情で過ごしていた。
 それを変えてくれたのは、
はね、私がこっそり泣いてると、何も言わないで傍にいてくれたの。私が無表情になってると、ほっぺたをぶにーって伸ばして笑わせたり。色んな所に連れて行ってくれたり」
 口がさない大人は、に取り入ろうとしているとか、そのうち捨てられてしまうとか、結構ひどいことも簡単に口にしていた。
 だが、は全く耳を貸さなかった。
 気にもしていなかった。
 が驚くぐらい、で。
「……は、私を家族だって。大事だって言ってくれた。私は捻くれてて、信用なんかするかって思ってたのに、はずっと、私のことを信用してくれてた。最初から、ずぅっと」
 グレタは何も言わない。
 コンラッドは真剣に、2人を見続けている。
「ねえグレタ。私は早くに親を亡くして売られたけど、マクドール家に行って、そこでとてもたくさんの幸せを貰ったんだよ」
「……グレタも、そうなれる?」
 物凄く不安を滲ませた、今までとは違う、力のない声。
 敵意の混じっていないそれは、迷子の子供がこぼした言葉みたいで。
 は柔らかく微笑む。
「きっと、ユーリがグレタにとっての『』になるよ」
 無言で見返すグレタ。
 の目の中に、嘘を探していたのだろうか。
 視線はすぐに外された。
「グレタ。自分の気持ちが見つかるまで、今までと同じでいいんだよ。でも、ユーリはそれでもグレタに優しくしてくれる。だって、グレタの『お父さん』だからね」
 グレタは驚いたみたいに目を見開き、そんな自分の態度にはっとして、あわてて布団をかぶった。
 話は終わったみたい。


 暫くして、グレタの寝息が聞こえてきた頃、
「……妬けますね」
 唐突にコンラッドが呟き、はきょとんとする。
 何が妬けるんだと視線で問いながら、ベッドから離れて、コンラッドの横に立つ。
 彼の横に立ったのに、意味はない。
 ただなんとなく、彼が立っているのに、自分が座っているのがおかしい気がしたからだ。
 コンラッドは隣に立つの瞳を覗き込んだ。
「貴方との繋がりに、嫉妬してしまう」
 彼の茶の瞳に散る銀が、強く瞬く。
 ユーリの黒曜石のような瞳も好きだし、の美しい紫の目も好きだ。
 けれどコンラッドのそれが、たぶん一番好きなのだと思う。
 不思議な煌きがあって、見飽きない。
 じーっと見つめていると、コンラッドは苦笑し、の頬に手を触れた。
。そんな風に見つめられたら、困ってしまうんだが」
「え? ああ、ごめん」
「俺としては大歓迎だけど、君を好きだという男の前で、そんな風に無防備になってはいけないよ。俺の我慢が切れて、君を無理やり自分のものにしてしまうかも」
 少々意地の悪い顔で言うコンラッドに、はけろりと答える。
「コンラッドは、子供の前でそーいうことをする人に見えない」
 あまりにもアッサリ言ったせいだろうか。
 彼は目を瞬き、口元を抑えて笑い出した。
 ――なんか、そんなに面白いことを言ったかな?
 ひとしきり笑いを殺した後、コンラッドは大きく息を吐いた。
「信用してもらって申し訳ないけど、俺は存外、強引なんだ。嫉妬深いし、態度に出るし――感情が高ぶると、回りを気にしなくなる」
「ぜんっぜん見えない」
 それにしても、凄い自己分析だ。
 的確かどうかは知らないが。
 ああでも、廊下でいきなり抱きしめにかかったりするのは、そういうことなのかも。
。手を出して」
「はあ。別にいいけど」
 はい、と手を差し出すと、彼は首を振る。
 左ではなく、右を出せという意味で。
「いや、でも……何をするの?」
「痛いことなんてしない。約束する」
 そういう問題ではないのだけれど。
 右手には、紫魂の紋章がある。
 が近くにいるから、力を込めずとも薄く存在を浮かび上がらせているそれ。
 あまり、人に触れられたいものではない。
 それでも、根気よく待つと言わんばかりのコンラッドの態度に負け、はため息をひとつ落として、彼に手を差し出した。
 コンラッドは微笑み、の取り――恭しく、その甲に口付けた。
「うわ!!」
 思わず手を引っ込める。
 彼は笑っていた。
「ななな、なにっ、なにあなた、どこぞの王子みたいな……!!」
「一応、元王子なんだけど」
「あ、そっか。ツェリ様の息子だもんね。……って違う!」
 納得するな自分!
 表情をころころ変えるを見て、コンラッドは幸せそうに笑む。
 ほんとうに嬉しそうに笑うから。
 は思わず、息を飲み込んだ。
「コン、ラッド?」
「俺も、君の支えになりたい。たちのように。遠慮なくものを言い合える関係になりたいんだ」
 囁くように言われた。
 は微笑む。
 彼の言葉が、とても嬉しい。
 関わりを持とうとしてくれる、その心が、とても。
「――うん、そうだね。きっと私も、そうなったら楽しいよ」
 あちらの世界では容易に失われる事柄も、こちらでは長く続けられる気がするから。
 真の紋章という神を宿していても、彼らは普通に接してくれると、そう思うから。
「コンラッド」
「うん?」
「ありがと」
 だからはお礼を言う。
 関わってくれて、ありがとう、と。


2009・2・6