幕間 5



 美香蘭って、アレだよな。
 おれが間違って付けて、ひでぇことになったアレ。
 その香りを今、おれの隣にいるが漂わせている。
 の部屋の中にはおれと彼女しかいなくて、よくよく考えると不味い気がする。
 彼女に好意を持っているおれの気持ちは、美香蘭の香りで思いっきり膨れているからだ。
 後ろにベッドがあるっていう状況も、よろしくない。
 椅子に座っていて、背後は見えない。
 それでも背面のベッドが気になるってのも、妙な話だけど。

「……ねえユーリ、その美香蘭とやらの効果は、どうやって消せばいいの?」
「時間が解決ってやつだよ。一晩ぐらいで何とかなると思う」
 だから、なるべく人に会わないほうがいいと言うと、彼女は案外あっさりと頷いた。
「今日はあと食事して寝るぐらいだし、平気」
「ごめんな」
 つい謝る。
 彼女はきょとんとして、それから笑った。
 どうしてユーリが謝るんだ、と。
 確かにおれが謝らなきゃいけない謂れはないけど、つい謝ってしまいたくなる。
 だって、彼女がここに――眞魔国にいるのは、おれのせい。
 たぶん、おれという存在がここに在るからだと思うから。
 初代魔王、つまり眞王は、彼女をおれの伴侶として呼び込んだらしい。
 だったらやっぱり、おれのせいだろ。
 考えると、落ち込んで戻ってこれなくなりそうだ。
 別のことを考えよう。
 今朝もヴォルフの足が、おれの腹に乗ってて重かった。
 あいつの寝相は最悪だよな。
 つうか、何が悲しくて男と一緒に寝るんだ。
 婚約者だとかって妙な答弁ならべて、いつの間にか一緒に寝てるし。
 どうせ同じ婚約者なら、の方が絶対に――って違うだろ!!
「ゆ、ユーリ? 何を一人で顔面運動してるの」
「えっ! 表情筋訓練でもしてた、おれ?」
「思いっきり」
 笑われて、なんだか恥ずかしくなる。
 顔を伏せるように俯くと、はなんだか嬉しそうに謝る。
「ごめんね」
「言う割に、妙に嬉しそうな」
「だって、嬉しいの」
 伏せた顔を上げて、彼女を見つめる。
 緑色の瞳が、本当に嬉しそうにおれを見るから。
 ちょっと、息が軽く止まりそうになった。
「……っうれ、嬉しいって?」
「ユーリみたいに、素直に感情表してくれるのって、凄く嬉しい。何も知らなかった頃に戻れる気がするから」
……」
 彼女の言う『何も知らなかった頃』はとても重たくて、おれなんかには推し量れない。
 こうやって一緒にいると全くそんな風に思わないが、彼女はおれよりずっと年上で。
 そりゃ、コンラッドたちから見たら、子供同然の年齢だけど、それでもおれより人生経験が豊富だ。
 おれが万年ベンチウォーマーをやってる時、別の世界で、彼女はたちと一緒に戦地を駆けていたのだろう。
 女の子が戦うなんて、とか言ったら、男尊女卑的になるだろうか。
「なあ。もし……もしさ、君がこの国の王妃さまになったら、何したい?」
 自分で言っておいてなんだが、物凄い唐突な切り口だ。
 しかも王妃になったらって。
 その横に立つおれは王様デスカーって、その通り。
 は目を瞬き、それから難しい顔をする。
 細められた瞳の色彩が、微かに濃くなった気がする。
「私は正直、国政に手を出せる人間じゃないと思ってる」
 それは、魔王陛下と呼ばれてるおれも同じです。
 だって日本じゃ単なる一介の高校生だし。
「じゃあ何が出来るんだって言われると、困る。何も出来ないと思うから」
「そうかな。おれより、随分と沢山のことが出来る気がするけど。ってそういう硬い話じゃなくていいんだって!」
 意図が伝わらなかったらしく、は小首を傾げた。
「というと?」
「自分がしたいことだよ。遊びでも勉強でも、これをしたい! っていうので」
「ああ、なるほど」
 彼女は雰囲気を緩ませると、先ほどよりずっと楽な態度で、思考をめぐらせている。
「美味しいものを食べて、キャッチボールとかで遊んで、満足して、安心して眠りたい、かな」
 今もそんな感じだけどと笑う
 キャッチボール、本当に気に入ってくれたみたいだ。
 安心して眠りたい、っていうのはどういう意味なんだろう。
 聞くと、彼女の重い部分を引っ張り出すことになると、なんとなく判っていたから、今回はノーコメント。
「ユーリは? もう王様だけど」
「おれは……やっぱり、美味いもの腹いっぱい食って、野球やって、大の字になって寝たい」
 最近、大の字で寝ているのは、もっぱらおれの隣でぐぐぴぐぐぴとイビキをかくヴォルフラムだ。
 自分の部屋でやってくれと、切に思う。
「ユーリが王様で、この国は幸いだね」
「そうかな。おれみたいなへなちょこじゃ、周りも苦労するし、国的には不味い気がするけどな」
「最初からぜんぶが上手く行く人はいないしね、だってそうだったし。だから」
 は少し言葉を切り、おれを真っ直ぐに見つめた。
 心臓がやたら煩い。でも、動きを止めてもらっちゃ困る。
「だからね、私がもし少しでもお手伝いできるなら、頑張るよ。出来ることは、ひどく少ないけど」
 微笑む
 ふうわりした、その笑顔。
 おれは今、上様モードじゃない。
 美香蘭のせいで、確かに妙な気分ではあるけど、そのせいじゃないと言い切れる。
 彼女は決して美女じゃない。
 モデル体系で、スタイル抜群ってんでもない。
 でも。おれは気づいてしまった。
 胸の中に散逸していた何かは、急激に集まりだして、形を成して、気づいた。
 コンラッドが『が好きです』と、に宣戦布告染みたことをした、たぶんその時に。
 口に出来るだろうか。
 彼女いない暦イコール年齢の、おれに。
 爽やか笑顔のおれの名付け親なら、きっと簡単に言えるだろうけど、おれには難しい言葉を。
「ユーリ、じっと見つめられると流石に居心地悪いよ」
 苦笑された。
 それすら嬉しくて、どうしよう。
 美香蘭の効果が、ガンガン上がってる気がする。
 彼女の口元しか目に入らなくなって、ヤバイと頭が警鐘を鳴らしてるのに、体の方は全く無視だ。
 自分がどうしたいのか、何を求めているのか、ふいに想像して、顔に熱が籠もる。
「あの、さ、。おれは、おれにしかなれないんだ」
「うん」
「へなちょこで、全然魔王らしくなくて。コンラッドやみたいに格好よくないし、ヴォルフやルックみたいに美少年でもないし」
 おれが自分を卑下していると思ったのか、の口唇が動く。
 最後まで言わせて欲しいと首を振れば、それで解ってくれたらしい彼女は、静かに頷いた。
「どうやっても渋谷有利で、それ以外になれない。でも、頑張ろうと思うんだ。精一杯」
 胸の内側がグツグツ音立ててそう。
 からの甘い香が、嫌が応にもおれの男の部分を刺激する。
 そんなの要らない。
 そんなものがなくたって、おれは。
「……それで、お願いがあるんだ、に」
「いいよ。さっきも言ったけど、私に出来ることは少ないよ。あ、紋章を使うのとか却下だから」
 おれは、椅子から思い切り立ち上がる。
 に近寄ると、軽い口調の彼女の肩をぐっと掴み、少しだけ引き寄せた。
 彼女は驚いていて、だけど逃げようとはしない。
 緑色の美麗な瞳が瞬いた。
「………おれ、に、側に居て欲しい」
 顔が熱い。頭も。身体も。全部熱い。
 何を口走ってるんだろ、おれ。
 魔王モードじゃなくて、ちゃんと自分の意識がある。
 でも、熱に浮かされすぎて、わけわかんねえ。
 呂律が回ってなかったら、すげーカッコわる。
 口より、頭の方が高速回転。ただし空回り。
「なんていうかっ、その、おれじゃとかに敵わないって解ってるけどっ、でも、に、側に……居て欲しいんだ」
 は形容し難い表情を浮かべる。
 言うなれば困惑だ。
 さっきコンラッドと一緒にいたし、もしかしたら、彼からも同じようなことを言われたのかも。
「今すぐお付き合いして下さい、とか、そういうんじゃなくていいんだ。友達からで」
「友達って……もう友達でしょ」
「あー、それはそうなんだけど。もう少し突っ込んだ友達っていうか!」
 言ってるおれ自身、意味不明。
「おれのこと、もっと知ってもらってさ。おれもを知りたいし。どんなことでも」
 野球小僧と戦争経験者じゃ、意見の相違なんて、あり過ぎるほどあるだろうけど。
 腹も立つかも知れないけど。
 それでも知りたい。のことを。もっと、たくさん。
「私……ね、コンラッドにも言ったんだけど、恋愛は怖いから、駄目なの。失うのが怖くなるでしょう?」
「それは解るよ。でも怖れて、そのことに手を触れずに要るは、すごく勿体無い……と思うんだ」
「……うん、そうだね」
「恋愛とか、そういう感覚じゃなくていいんだ。無理に好きになってもらっても、困るし」
 だから。
「いつか、がおれの本当の婚約者になってくれるまで、男友達でいいんだ。でも、許してくれるなら――」
 気持ちが伝わるように、おれは緊張を小さく吐き出す。
 は黙っておれの言葉を待っていた。
「たまには……その、デート、したり、しよう」
 綺麗なものでも、嫌なものでも。
 君と見るなら、きっと何かを得ることができると思うから。
 言い切って半ば思考が呆けているおれに、は――ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。
 口唇が動いて、おれの名を呼ぶ。
 それがなんだかたまらなく愛しくて。
 気付いたらの口唇に、おれの口を触れさせていた。
 は目を丸くしている。
 おれも多分そう。
 慌てて離れて、慌てすぎて尻餅をついた。
 カッ……かっこわるー!
「っ、つうかゴメンっつ! おおお、おれ、キスするつもりじゃっ……キスっていうか、いややっぱり今のはキスだよな、魚のキスなら問題ないねってうあーー、落ち着けおれーーー!!」
 尻餅をついたまま頭を抱えて焦るおれに、の笑い声が被さった。
 恐る恐る彼女を見る。……笑ってるよ。
「怒って、ないのか?」
「……まあ、ビックリはしたよ。でも怒りはない」
「よかった……」
 心からほっとして、おれは床に手をつく。天井を仰いで、大仰に息をついた。
「魔王様がそんな風に、床に座ってたらだめだよー」
 は普段と変わらない態度で、おれに手を伸ばす。
 彼女の手を取って立ち上がった。あれ、普通は逆じゃねえ?
 口調こそ普通だが、もさすがに照れているのか、頬が赤い。
 たぶんおれは、もっと赤い。
「……あの、ユーリ」
「はははははいぃ!!」
 声、裏返りすぎ。落ち着けマジで。
 スーコースーコーとダースベーダーの如く息を吸い吐きし、少しは落ち着いた。
「ごっ、ゴメンな! でもおれも男だし、我慢しきれなくなったらまたやっちゃうかもって……スミマセン」
 いらんことまで言って、大失態だ。
 彼氏彼女の関係でもないのに、我慢しきれなくなったら食うぜ! とかって最悪だろ。
 でもは案外あっさりと、
「ええと……今度もしする時は、していいか聞いて、一応」
 予想外の返事を返してきた。
 次いで、おれの大好きな笑顔を浮かべる。
「もう解った。なるようにしかならないよね」
「へ?」
「ユーリ。私大事な人を増やすのが怖いの。好きな人を作るのは、もっと怖い。みんな、私より先に逝くから。それに私は、何よりもが第一だから」
 が、第一。解ってるんだ、そんなの。
 でも、それでもいいんだ。
 おれは、彼女をバッターボックスに立たせた。
 後はいかにおれが、彼女に打って貰えるような球を、マウンドから投げられるかなんだから。
 まあ、普段はキャッチャーなわけですけども。

「なぁに?」
「……おれっ、君が、好き、です!」
 今のおれにできる、精一杯の告白。
 私も好きです、なんて夢見たいな返事は返ってこなかったけど、それでいいんだ。
 とりあえず、今は。



2008・5・16