「……デュナンやトランの本拠地風呂も、相当大きいと思ったけど。ここも凄いよなあ」
 ひとりごち、大きく伸びをする。
 胸元で水がたぷりと揺れた。


幕間 4



 の部屋から出て、運動することしばらく。
 激しく動きすぎたらしく、汗を掻いてしまった。
 なので、少々早い時間ながら入浴中、という次第だ。
 たち異世界人は、恐れ多くも貴族の湯殿を使わせてもらっている。
 一応部屋にも湯場は付いているが、大きいお風呂の方が好みで、こちらに来てしまう。
 足を伸ばしてゆっくりつかりながら、息をついた。
 たっぷり温まって、ざばりと上がる。
「ふー。さっぱりー」
 用意されている大判のタオルを手に取り、体を拭いた。
 次いで、替えの服を手にとって、げ、と嫌な顔をする。
「……スカート」
 コンラッドはよく、スカートを穿けばいいのにと言うが、普段的にはどうにも無理そうだ。
 あのスカスカする感じが慣れない。
 慣れるほどに穿いてしまえば、いいのだろうけれど。
 とはいえ、侍女が用意したのはこれだけで、今まで着ていた服はすでに彼女たちが持っていってしまっているし。
 裸でいる訳にもいくまいと、仕方なく身に着ける。
 ――髪、少し切った方がいいだろうか。
 腰ほどまである長い髪を、タオルでぱたぱた叩いて乾かしつつ、思う。
 昔は肩までだったそれは、今はすっかり伸びていた。
「……まあ、いっか」
 が好きだと言ってくれるし。
 どうしても切りたくなったら、その時に切ろう。
 髪を乾かしてから廊下に出、さてどうしようと考える。
 夕食まではまだ少し時間がありそうだ。
 せっかくだし、とお茶でもしようかと、彼の部屋へ足を向けた。
 やっぱり足元が寒いなあ。


 振り向くと、長身の青年の姿。
 相変わらずカーキ色の軍服がやたら似合う。
「どうしたの? 何か用事でも」
「ああ、今夜一緒に食事でもと思って――?」
 近づいてきたコンラッドが、微かに眉を寄せる。
 険しい顔をさせる何かがあるのだろうかと、は自分の体を眺めた。
 特に何もない。
「コンラッド? あの、なにか」
 彼は、物凄く何かを我慢しているような表情。
 なんだ。どうした?
 怪訝に思いながら、言葉を紡がない彼の服の裾を、くい、と引く。
 それが合図だったみたいに、彼の指がの耳朶に触れた。
 普通なら、そんなもので驚きはしない。
 しないのだが、触れ方が、なんというか――そう、半ば愛撫するみたいな感じだったから。
「うわ」
 さすがのも、やルック、以外にそうされるのを慣れてはいない。
 逃げるというほどではないが、微かに体を引いた。
 笑顔が引きつる。
「なにっ、なんか付いてた?」
「……、風呂に入っただろう。で、何かしたかい?」
「は? ……いや、普通に入浴しただけ」
「洗料なんかは、どうした?」
「その場にあったのを借りた」
 それで何かが解ったのか、コンラッドはこれ見よがしに溜息を転がす。
「……母上の忘れ物だな。或いはわざとか」
「ツェリ様のだったの? わ、どうしよう。怒られるかな」
「それはないよ、安心していい。……今日はスカートなんだね」
「侍女さんが用意してくれたのが、これだったんだけど。……いや、ほんとスカスカしちゃって」
「もっと穿けばいいのに」
 苦笑する彼の笑みは、いつもと違う気がする。
 なんだか余裕がない気がした。
 上ずった雰囲気がある。
「コンラッド、どうしたの……本当に、なんだかいつもと」
。俺はさっき、に許可を貰いに行ったんだ」
 許可?
 話が見えなくて、首を傾げる。
「それで、俺が君に触れる許可を貰った」
 触れる許可。
 は思わず、自分の右手にあるはずの紋章を見た。
 反応はない。
「――ごめん」
 突然謝られ、次の瞬間には目の前がカーキ色一色になった。
 目を瞬き、その色を指先でカリカリ引っかくと、頭のすぐ上から軽い笑い声が。
「くすぐったいよ、
「……なに、してんの」
「何って。抱きしめてる。君を」
 さらりと言われ、二の句が告げなくなった。
 温かなぬくもりが確かにあって、正直、妙に居心地が悪い。
 なんだろう、この居心地の悪さ。
 人に抱きしめられるのが嫌いだとか、そういうことはないと思うのだが。
 変にむずむずする。
 やルックだと落ち着くのにな。
「えーと。理由は解らないけど、離して」
「嫌だ」
 即答。
 どうしましょう……。
 なんとかこの奇妙な居心地から逃げ出そうと、言葉を捜す。
「……、本当に加護を緩めたんだね」
 こうして長いこと抱きしめられたら、以前ならばコンラッドは壁まで後退させられているはずだ。
 それがないということは、つまり、の意向によるもの。
 問うというよりは独り言のそれに対して、コンラッドは返事をする。
「俺が頼んだからね」
「理由を聞いてもいい?」
 彼の顔を見るのは、いけないことのような気がしたから、カーキ色を見つめたままで尋ねる。
 急に、コンラッドの吐息が耳にかかって、身体が微かに跳ねた。
「――君を好きだからだよ、。触れたくて、たまらないから」
 半ば耳に押し当てるようにして囁かれた言葉に、思考が止まる。
 恥ずかしいとか、そういうんじゃない。
 急激に、頭蓋に流し込まれたのは、純粋な疑問ばかり。
 彼に何かを与えただろうか。
 彼に何かをしただろうか。
 彼が自分を好きだと言う、その根拠ばかりを探っている。
 動かないに、コンラッドは微かに首を傾げ、彼女の顎下に手をやって上向かせた。
 近い位置でぶつかる、視線。
 コンラッドの不思議な色合いを持つ瞳に、焦りが見えるのは気のせいか。
?」
「……解らないよ、コンラッド。貴方が私を好きだという理由が、解らない」
「理屈が必要かい?」
「時にはね。それに――ごめん。恋愛は怖いから、駄目だよ」
 言えば、彼は肩眉を上げて、ちょっと意地の悪い笑み。
 どことなくに似てる気がした。
「どうして怖いんだ? その人のことだけで、全部が埋まってしまうから?」
「うん、そう。そしてそれを失いたくなくなる」
 それに。
「それに――過去は消せない。お互いに」
 コンラッドの瞳が、強く瞬いた気がした。
 同時に、ぎくりと身を強張らせたような気もする。
「俺の過去を知ってる?」
「知らない。でも、瞳が如実に伝えてくるからね、そういうのって」
「手厳しいな」
「見た目より年いってるから」
 苦笑する彼は、けれど身体を離してはくれない。
 普通の女の子なら、こういうとき、心臓が煩く鳴ったりするのだろう。
 にあるのは、警鐘ばかり。
 紋章が呟く。蓋をしろと。
 相手を不幸にしたくないのなら、蓋を閉めて、鉄の紐でがんじがらめにしてしまえと。
 紫魂の紋章は、生と死の紋章を愛している。
 そしてかの物と同種のもの。
 いつぞ相手を不幸にするかも知れない。
 だから。
 相手が自分を恋うているなどと、思ってはならない。
 自分が恋をしてみたいと思っているなんて、欠片ほど感じてはならないんだ。
 瞳を逸らすを、コンラッドは許さなかった。
「駄目だよ。俺は聞き分けのいい男じゃないんだ」
 無言を返事とする。
 だって、答えようがない。
「貴方が俺の方を向いてくれるように、精一杯のことをするよ。許して欲しい」
「……ユーリと私を天秤にかけたら、貴方はどちらを取る?」
 出し抜けの質問。
 コンラッドが間を置かず、
「それは勿論ユーリだ」
 の望む答えを出した。
 もしこれが、、だったならば、顎下に鉄拳でも入れていたかも知れない。
 王を蹴飛ばす臣下に告白されても、嬉しかない。
 は、諦めたように溜息をついた。
「解ったよ。とにかく――今私に答えられるのは」
 のは……なんだろう。
 微かに考え、頷く。
「コンラッドのことが、好きだよ」
「恋人にしたい『好き』ではないけれど?」
「そう……なんだろうね」
 自分の心を量りかねている。
 答えは藪の中に転がっているが如く、見つからない。
「いいよ、とりあえず俺は俺で勝手にするから」
 爽やかに宣言し、やっとのことで離れてくれたと思いきや。
 手を引かれ、どこかへ連れて行かれる。
「どこいくの?」
「貴方を危険から遠ざける」
 は!?
 説明を求めると、コンラッドは少し苦しそうな笑顔。
「さっきっから、なんか辛そうな顔してたりするけど……どっか痛いの?」
「違うよ。貴方を襲いたい衝動を、必死に堪えている」
「はぁ!?」
「入浴時に使った洗料は、美香蘭というんだ。相手の感情を増幅させる。以前ユーリも使って大変なことになった」
 好意を持つ者にはより好意を。
 敵意を持つ者にはより敵意を。
「へえ……ってちょっと待ってよ。じゃあ貴方は?」
「俺? さっきも言ったでしょう。襲いたいのを我慢してる、と。もっともこれは、別に美香蘭の効果じゃない」
「へ?」
「美香蘭は、魔力のある者にしか利かないんだ。俺には、ひとかけらの魔力もない」
「じゃあ、なんでコンラッドはそんな――」
「君の、風呂上りの扇情的な姿のせいだ。それに、貴方におおっぴらに触れられるようになって、気持ちが高ぶってるのもある」
 どっちにしろ、このままついて行ったら不味いんじゃ。
 とて、蕾のままの可憐な少女ではない。
 襲うという意味を履き違えもしない。
 思わず、彼の手を思い切り引いて足を止めさせた。
? 早く。魔力のある誰かに見つかったら、危ないよ」
「私の中では目下、貴方が最も危険だよ」
「大丈夫だよ。我慢しているから」
 全然、大丈夫そうじゃ、ないッ!!
 叫ぼうとした時、救いの手(?)がかかった。
「ああ、見つけた!」
 黒髪の魔王陛下を見止めて、はコンラッドの手を振り払う。
 そのまま彼の手を引いて、駆けた。
!」
「ごめん、コンラッドッ、また後で!!」
 ユーリならきっと大丈夫だ。魔王さえ出てこなければ。
 彼は以前に美香蘭とやらを使ったそうだから、対処法が判るはず。
、どうしたんだよ」
「美香蘭っていうのを付けちゃったの」
 それだけで察したのか、が引いていた手を、今度は彼が引く形になる。
「じゃあええと、の部屋行こう! おれの部屋だとヴォルフラムが煩いから」
「うん」
 否を唱えず、ユーリと一緒に駆けた。





2008・3・28