互国響動 25



 頬を撫でる夜の外気が、熱された思考を急激に冷やしていく。
 は、凝り固まった怒りを吹き出すように息をつき、2階廊下から下を眺めた。
 綺麗に整備された庭がある。
 縁に寄りかかりながら、もうひとつ息を吐く。
 まだ、苛立っている自覚がある。
 生まれた怒りを打ち払うには、感情の切り替えが必要だ。
 それは結構上手く出来る――以前よりは。
 外気を取り入れ、吐き出す。
 冷静すぎる、強張った頬を指で軽く押した。
 いつも怖い顔をしていると、が同じことをやってくれるが、今、彼女はユーリの傍だ。
「……ごめん」
 謝るの横に、影が落ちる。
 顔を上げずとも判ったから、はそのまま庭を見つめ続けた。
に謝ってるなら、本人に言うのがいいと思うけど」
「そうだな、ルック。でもきっと、謝ると逆に怒られる気もしてる」
 いつも不機嫌な紋章師は、やはり普段と変わらない表情で鼻を鳴らした。
「全く。君は、変な所で子供っぽいのは、全く変わってないね」
「解ってるよ。十分、解ってる。――ユーリは?」
がなんとかするだろ。それか、周りの過保護な奴らがね」
「手厳しいな」
「君ほどじゃないと思うけど?」
 言葉が止まる。
 暫しの無言。
 それが苦痛ではないのは、気を許しているからなのだろう。
 どちらとも口を開かぬまま、数分が過ぎた頃、
「なあルック。……オレは、間違っていただろうか」
 少しだけかすれた声で、訊ねた。
 ユーリの言葉はひどく真っ直ぐで、綺麗で。
 だから、多くの紛争を駆けてきたにとっては、眩し過ぎる。
 ルックは小馬鹿にしたように、を見た。
「それを僕に聞くのかい?」
「今ここにいるのは、ルックだけだろ」
「ふん。……君と魔王じゃ、立場が全然違う。戦わずにいたら、トランはどうなってた?」
 『戦わない』を選択した場合のことについては、考えなかったはずがない。
 赤月帝国の賢帝バルバロッサは、亡き妻の面影を持つ女性に、骨抜きにされていた。
 それだけなら、まだ良かったかも知れない。
 けれど、賢帝を骨抜きにした女は、世間にとっては『悪女』であり、国を腐敗させる要素を持つ者だった。
 そのまま放置していれば、どうなったか――。
 考える間もなく判る。
 どのみち、なんらかの形で帝国は終わりを迎えただろう。
 それも、が成したよりも、ずっと凄惨なかたちで。
 押し黙ったままのを、ルックはねめつけた。
「戦わずに済む方法が、何かあったはずだなんて本気で考えてるのだとしたら、僕は大いに失望するよ」
「少なくともあの当時、そんな方法はなかっただろうな」
 幾度となく争いを回避する方法を、当時の軍師と考えた。
 考えて、和平を歩める路(みち)が皆無なのだと思い知った。
 帝国郡に路を譲ることは即ち、民に熱された鉄の上を歩かせることと同義だったからだ。
 でも。
「だが軍主になどならなければ、オレがを傷つけることもなかった」
「君、まだ気にしているわけ」
「お前だって、自分が彼女にしたことを気にしてるくせに」
 言うと、ルックは口を引き結んだ。
 形は違えど、もルックも、に傷を負わせた者同士だった。
 彼女は笑って過ごしてしまうけれど。
 戦場では、予測不可能なことが起こるのだから、気にすることじゃない、と。
 は額に手をやり、大きく息を吐く。
 石縁に背中を預けた。
「にしても、が『強い』ね……。見誤ってるんじゃないのか、あの魔王とやらは」
「酷いなルック。オレが弱いって? そんなことはないだろ」
「……まあ、誰かの悲鳴を聞いて泣くあんたは、想像できないけど」
 素通りする全員に感情移入は、できない。
 それはが強くて冷たい人間だからではなくて、そうせざるを得ない環境に、ずっと身を浸していたからだ。
 生きることしか考えられない場。
 戦場とはそういうものだし、怪我をしたと痛がったり、知人が死にそうになっているからと泣きそうになったりできない。
 次は自分が地に伏して、呼吸を止めるかも知れないからだ。
「ユーリの優しさは……たぶん、オレが永遠に相容れなくなってしまった部分だ」
「アンタは充分過ぎるほど優しいんじゃないの。僕から言わせれば、相当おせっかいだし」
 世捨て人のように、あちこちを放浪しているのは何故か。
 人との関わりを、できる限り避けているのは何故か。
 ――生と死の紋章の犠牲者を、出さないためだ。
 いくら傍にと彼女の紋章があるといっても、暴走されたら何がどうなるか判らない。
 コンラッドたちには、絶対に大丈夫だなんて言ったが、今までがそうだっただけで、確証はないのが実状なのだった。
 は苦笑する。
「オレは優しくなんてないさ。優しかったら、戦いなんて起こさなかった」
「優しいから起こさざるを得なくなったんだろ。それとも君は、独りよがりで戦争したとでも言うの?」
「自身の利益のためにか? それはないな、確かに」
 名門貴族の息子で、何不自由なく――母親とは死別していたが――暮らしていた。
 好きな女の子もいたし、親友もいた。
 頼れる大人たちが、周りにいた。
 利益など必要にならないぐらい、幸せを感じていた。
 だから、争いなんて必要なかったし、外で起こっている民の苦痛を見るなんてこともなかった。
 近衛兵として帝国の仕事に従事した、あの時までは。
「でも、結果としてオレは争いの首謀者になったんだ。ユーリからしたら、理解不能の人種なのかもな」
。君には理解できるのかい? 『魔王陛下』を」
 純粋な疑問の音を発するルック。
「ああ、たぶんね。オレだって戦いが好きな訳じゃないんだ。――ただ」
「ただ?」
「……いや、そっちはが、ちゃんと言ってくれるだろう」
 軽く笑んで、天井を仰いだ。





2007・10・5