互国響動 9



 非常に不機嫌な表情を顔面に張り付かせたまま、立ち消えた紋章の気配を探っていた少年――ルックは、集中を切り、手にしたロッドを振った。
 自分の焦げ茶の髪に纏わりつく風を、指先で叩いた。
 背後にいる、彼の師匠であり、真の紋章を見守る者でもあるレックナートを、半ば睨みつけるようにして見返る。
「何度やっても同じです。ソウルイーターも、紫魂の紋章も、面倒くさいことにこの辺にいない」
「やはり……」
 レックナートは長い黒髪を後ろに流し、首を振った。
「何者かが、を連れ去ったようですね。はそれを追った」
 先ほどまでの魔力の流れを散らすように、ルックは再度ロッドを振った。
「簡単に連れてけるような奴じゃない。相手は、それ相応の力を持っているって?」
の紋章の気配は、不自然に途切れています。この世界ではない場所へ、連れて行かれたのでしょう」
「放っておいても、あいつ等は勝手に帰ってくると思うけど」
 その点については、ルックは確信していた。
 時間がかかろうが、いずれは戻ってくるだろうと。
 何しろ、が持っているのはソウルイーター。
 そして、傍近くには寵愛している紫魂の紋章。
 あの2人が一緒にいて、なんとかならない筈がない。
 レックナートも、その意見には同意した。
 しかし彼女はゆるりと指先を、流れる風に触れさせた。
 ふうわりと、彼女の髪が舞う。
「――ルック」
「一応聞いておきます。なんですか」
が彼女を追った折の、魔力の残り香があります」
 そこまで聞いて、ルックはレックナートに背中を向け、大仰なぐらいの溜息を転がした。
 次に来る言葉は、言われずとも分かっていた。
 だから先に言う。
「僕の真の紋章で、魔力の残滓を追えと言うのでしょう?」
 真の紋章持ちにしか分からない、力を使った後の残り屑。
 同じ真の紋章――真の風の紋章を持つルックには、当然それが分かった。
 レックナートは、路をハッキリさせようとしているのだ。
 例えるなら、薄ぼんやりとしか見えない暗渠に、ルックの力で、そこかしこに灯りを点けるような。
 即ち地均しであり、彼らを追ってゆけという、言外の進言である。
 ルックはウンザリしながら、ロッドを持つ手に力を込めた。
 レックナートは頷く。
「連れ行った相手の正体が、全く分かりません。行き来できる者が必要なのです」
「はいはい、分かってます。――まったく、奴らには苦労させられる」
 言いながら、存外こちらも苦労をかけている事は棚上げだと、頭の隅で考える。
 要らぬ争いを起こし、自分を屠ろうとした。
 それを止めたのはであり、であり、今は一国の城主になっている少年であり、当時の宿星。
 少なくとも、、国主に恩がある事に相違ない。
 ルックが認めていなくともだ。
 長年の付き合いもあるからか、面倒でも放っておけない気がした。
「さて……果たして上手く行くかな」
 一度は手放そうとした紋章に、意識を集中させる。

「我が真なる風の紋章よ――」





 ユーリは、自分の向かいで本に向かっているを見て、普通の女の子だなあと、改めて思った。
 超絶美形ばかりの眞魔国にあって、安心できる――といっても、決して彼女が可愛くないわけではないのだが。
「陛下、御手が止まっておりますよ」
 ギュンターにぴしゃりと言われて、ユーリは慌てて書き取りを始める。
 彼は今、英単語の習得――ではなく、眞魔国の言語を完全習得すべく、同じ単語を何度も書き取り続けていた。
 国についての勉強も、後に控えている。
 正直、運動パラメータばかりが上がっているユーリは、学力パラを上げる作業は苦手である。
 それでも王として立ったからには、すべき多くをこなすのは当然なのだが。
 自分はともかく、も一緒になって勉強をしているのは不思議な感じだ。
 ユーリは羽ペンの先を紙から放し、難しい顔で本を読み続けているを見た。
「なあ、勉強好きなのか?」
「嫌い」
 予想と違う答えが帰ってきて、ユーリは目を瞬く。
 ギュンターは苦笑した。
「随分とはっきり言いますね」
「だって嫌いだもの。でも、今の自分に必要でしょう。どれ位ここにいるか分からないし、いつ何が起こってもいいようにしておかないと」
 言って、彼女は大きく息を吐いた。
「ところで、はどうしたんだ?」
 十数日前にの紋章を介してやって来た、もう一人の客人を、ユーリはあまり見ていなかった。
 話をしようと部屋の戸を叩いても、たいてい居ない。
 朝早くから、夜中までいない――というのが、ユーリの認識だった。
 ギュンターが残念そうに嘆息する。
「ああ、この場に殿がいれば、陛下と殿を含めて、手取り足取り勉強を……私の心は浮き立ちそして幸福に恵まれめくるめく愛の世界……」
 つらつら訳の分からない事を言い出したギュンターに、は目を瞬いて頬を掻く。
 ユーリは引き攣り笑を浮かべた。
「また発作だ……。、無視な、無視」
「ギュンターの習性なんだね……。は確か、今朝からグウェンダルさんの所にいるはずだよ」
「えぇ!? ゴッドファーザー……じゃなくて、グウェンのとこ!?」
 驚くユーリに、は首を傾げた。
「なんで驚くの?」
「だってさ、怖くねえのかな。いや、悪い奴じゃないんだけど、おれ、最初は近寄り難い感じだったし……ほら、眉間に皺がいつも寄ってるし」
 今はともかく、会った最初の頃は、とてもではないが2人きりになりたい男ではなかった。
 いや、今だって一日中一緒だと、ちょっとばかり肩が凝るが。
 はふぅんと頷いた。
「んー。色々な人に会ってるからねえ、私たち。グウェンダルさんは品があるし、抵抗感とか全くないなあ」
「もっと怖い人がいたって事か?」
「それもあるけど……いずれにせよ、ちょっとの事じゃ動じないから。は特に」
 ほんの少し。極微かに苦さが混じった彼女の笑顔。
 ユーリはほんの少し息を飲んだ。
 ちょっとの事じゃ動じない。
 それが、物凄く重い言葉な気がして。
とかって、すっげぇ大人みたいに見えるよ。おれなんか、小さい事にビクビクする小市民だし」
 その時、ノック音がして、が顔を出した。
、グウェンダルさんの所は、もう終わったの?」
 の問いに、は首を振る。
「いや、ちょっとギュンターに確認があって」
 名を呼ばれた事で、今までどこかの世界へ思考を飛ばしていたギュンターが、きりりと顔を引き結ぶ。
 少しだけ緩んでいる気がしなくもないが。
「私に何か用事が?」
「あー……いや、ユーリがいるのなら彼に」
 ガックリとうな垂れるギュンター。
「おれに出来ることかな」
「ああ。君にしかできない。後ででいいんだが、兵士宿舎の見学をしたい。それと、蔵書室にある本の閲覧許可が欲しい」
「え、ああ、もちろんいいよ。宿舎は、コンラッドに案内してもらうといいんじゃないかな」
 は笑む。
「すまない。ギュンター、時間があるなら、蔵書室までの案内を頼む。さすがにまだ道を覚えきっていない」
「分かりましたッ! 陛下、少し御前を失礼しますよ」
「あ、うん。いいよ、いってらっしゃい」
 言うと、とギュンターは揃って姿を消した。
「……って、すげぇな。なんか颯爽としててカッコイイ」
 自分より少し年上位なのに、覇気、とでも言うのだろうか。風格がある。
 そこに立っているだけで目を引くというのは、凄い事だ。
ってさあ、モテるだろ」
 に聞くと、彼女は頷いた。
「そりゃあもう。道行く人にキャーキャー言われるのは日常茶飯事」
「うわー、おれには絶対にない属性値だな」
「ユーリはこの世界では可愛いに相当するんでしょ? キャーキャー言われてないの?」
 余り嬉しくない事を言われ、ぐっと詰まる。
「おれ、間違いなく男なわけよ。男に黄色い悲鳴を上げられてもな……」
「ヴォルフラムと婚約してるのに、やっぱり嬉しくないんだ」
「………男ですから。大体だな、ヴォルフとの婚約は不可抗力というか」
 ブツブツ言うユーリ。
「そ、それに……今はとも婚約してるだろ」
「ごめんね、嫌でしょユーリ」
 途端に顔が曇る
 ユーリは慌てて大きく手を振った。
「い、いやっ、おれは別にっ。の方が嫌だろ!?」
「嫌って言うか、困ってはいるけど、でもユーリが嫌いって訳じゃないんだよ?」
 ――ざっくり。
 そうか、困ってるのか。当たり前だよなあ。
 嫌いではないと言われた事だけが救いだ。
 彼女はユーリの内心に気付くことなく、本を閉じて机の上に置いた。
「今は何より、テッドの事が知りたい。……魔王が本当にテッドと会わせてくれるか、分からないけど」

「――心外だ。余は嘘をつかぬ」

 唐突に変わったユーリの口調。
 はっとして、は思わず身構えた。
 目線の先には、今までの彼とは違う、どこか高圧的な笑みを浮かべたユーリがいる。
 否、これはユーリではなくて、魔王だ。
「唐突なお出ましで……」
「望まれざる客人が来たようだな。か……致し方ない、滞在を許可しよう」
「既にユーリがしてます」
「そうであった」
 魔王は2度頷く。
 それから、すぅ、と瞳を細めた。
「テッドなる者と会えるのか、訝っておるだろう」
「当然です。私との知る彼は、死んでいるんだもの」
「お前に嫌われる事も、疑われる事もしとうない。真実だという証拠を与えよう」
 魔王ユーリはおもむろに立ち上がると、壁にかけられている地図の一点を、ずびし、と指した。
 左手が腰にあるのはご愛嬌。
 風呂上り牛乳ポーズだ。
「ええっと……ここは……ヴォル……テール?」
「そうだ。長髪眉間皺の余の家臣に聞くがよい」
 長髪で、眉間に皺。
 はぽんと手を叩く。
 ヴォルテール。フォンヴォルテール卿。
「そっか、確か十貴族とやらにはフォンがつくんだっけ……グウェンダルさんに聞けばいいの?」
「うむ。調べれば直ぐに見つかるであろう。――さて。余に右頬を差し出すのだ」
「は?」
 唐突過ぎて、サッパリ意味が分からない
 魔王は普段のユーリとは違う、かっこよさ気な笑みを浮かべる。
「右頬を差し出せば、婚約成立となる」
「そっ、それを聞いて差し出すもんですか!」
「なんと! まだ余の気持ちが分からないと申すか!」
 そういう問題ではない。
 早くユーリに戻って欲しいと思うの手を、魔王ユーリが掴もうとして――いきなりバチッと弾かれた。
「ぬ!」
「あ……そうか。が近くにいるから、庇護率が高いんだった……」
 紫魂の紋章は、ソウルイーターから保護を受けている。
 つまり、を護りたいと思う限り、紋章を介して様々な危険から護ってくれるのだが。
 ……ちょっと、やりすぎかも。
 魔王ユーリは、心外とばかりにの紋章を睨みつけた。
「余にをくれてやらぬとでも言いたいのか」
 たぶん、その通りである。
「と、とにかく今回はありがとう。テッドを探してみるね」
「次に会う時には、でぇとでもしようぞ」
 言うが早いか、の目の前の『魔王』は『ユーリ』になる。
 早変わりみたいだ。
 ユーリは、今目覚めたような顔で、きょろきょろ辺りを見回す。
「……あれ? おれ、もしかしてまたやった?」
「うん、やった。でもテッドの情報教えてくれた。グウェンダルさんに会わなくちゃ」
 立ち上がるの手を、ユーリが掴む。
「ユーリ?」
「あのっ、おれ、し、してないよな? キスとかっ」
「ああ、平気、大丈夫だった」
「そっか……」
 ホッとして、ユーリも立ち上がる。
「グウェンダルの所だろ? 案内するよ」
「ありがとう」
 にっこり笑むを見て、ユーリは思う。
 もしかして、覚えていない間にやっている行動は、全部自分が望んでいるものではないかと。
(……いや、でもおれ、いくら好きだったとしても、いきなり求婚なんてしねーよ!)




魔王さま神出鬼没。
2007・3・30